
鰯の頭も信心から
学校というところは集団があって組織がない。一度職員の団結のタガが緩むと、もうそこはアウトローの世界である。もともとが、一国一城の主のような輩が集まっているのだから、てんでに勝手なことをやりはじめる。幸い僕の属していた学年は、若手を中心にまとまっていたので集団らしさが残っていた。風紀面でも一定の線が遵守されていて、妙な民主主義や生徒の自主性期待論に支配されることもなかったので、所謂標準服なるものをきちんと着用させていた。こう言うと、自称進歩派インテリ教師なる者が、締めつけ・おさえつけ・体罰派などと『反動教師』というレッテルを体じゅう耳なし芳一よろしく貼ってくれるが、体をはって自由を獲得したこともないお坊ちゃま教師にあれこれと言われる覚えはさらさらない。
しかし、生徒に標準服を着用させると一口でいうが、これがなかなか厄介な作業なのである。僕自身は高校で反制服闘争を教師軍団に挑んできたのであるから、本来標準服なるものには反対である。しかし、ここで大切なのは高尚な理想も、飯を食って糞をたれるという現実のまえでは、無力であるということだ。人はパンのみで生きるにあらずという聖人の言葉にも、まずパンがなければ生きていけないという生物としての人間にとって当然の、ごくあたりまえのことが、大前提として含まれているのだ。服装など自由でいいよと言ってやりたいのだが、僕の可愛い生徒達は、そんなこと言った日には、もう全て自由にやってくれるのである。自由というよりアナーキーにやると言ったほうがいい。便所は喫煙室となりはて、強者は弱者に上納金を要求し、授業はそれこそ自由参加となり、揚げ句の果てに卒業後の進路は真っ暗闇になってしまうのである。考えてみても判るだろう。髪の毛をギンギンに染、眉を剃り落とし、女物のツッカケを履いた生徒をだれが雇うであろうか。高校にしても、面接でいくら付け焼刃の身なりをしても、そこは、餅は餅屋すぐ見破られて不合格となるのである。そこで、僕達はしかたなく生徒に標準服を正しく着用させるべく努力したのである。その努力が報われてか、三年生の修学旅行も正しい身なりで完了することができたのである。ただ一つ生徒が手首に巻いた赤いバンドをのぞいては。
修学旅行前のある日、運動場で風紀検査を実施した。僕は三年生の生徒指導係として違反に目を光らせていた。検査のほうは無事終了したのであるが、二十分ばかり時間が余ってしまった。何とか時間をかせごうと、僕は生徒をグランドに座らせ修学旅行の諸注意をすることにした。「ええか、先日も体育館で言うたとおり、次の五つは絶対に守れ。
@他校との喧嘩―わかっとるな、とにかく目を合わせるな。お前ら中学生は進化途上や。クロマニョン人にもなってないエテ公の親戚や。エテ公は目合わせたら喧嘩や。さあから他校の中学生見たら下向いとけ。
A万引きや。これは窃盗や。警察に捕まったら教師の力では助けられん。ええな。
Bタバコや。絶対吸うな、そのかわり、教師が吸うたる。お前らのかわりに。
C酒や。わかっとるな。
D消灯後の男女の部屋がわり。
ええか、この五つだけは絶対守れ。これ以外やったら、頭を撫でるぐらいで許すが、この五つだけはただではすまんぞ。」
「先生。その五つ破ったら、そく家に帰らせられるん。」
「あほ、帰らせるぐらいやったら、最初から連れていかんわい。」
「ラッキー。二年前なんか一寸した違反で修学旅行パーやで。」
「なにが、ラッキーじや。帰らされたほうがラッキーとおもう責め苦が待っとるわい。あほめが。」
「先生、どんなとこいくん。」
「よくぞ聞いてくれたウサギさん。ええか、お前らが今度行く上高地は、むちゃくちゃ道が曲がりくねっとる。今まで酔うたことのない奴も絶対に酔う。ゲボゲボあげよる。しかし、お前らは勝手に酔うことは許されん。もし、どうしても酔いたい時は俺に許可をもらってから酔え。許可なしで酔うた奴は、あげたもんを皆飲み込んでもらう。ええな。」
生徒たちは、オッサンまたはじまったという顔をしながら笑っていた。
「しかし、お前ら心配するな。今のは普通にしとったらの話や。だから、お前らは一人も酔わん。絶対酔わん。なんで酔わんかと言うと俺が今酔わんと言うたからや。それでも酔う奴は、俺の言うこときけん奴らやからシバイタル。ええか。」
生徒たちはたいそう喜んだ。これで止めておけば、なんということもなかったのであるが僕もつい調子にのって
「そやけども、どうしても心配な奴はミヤ・シックオフを買うてこい。これは、釣り人が船に乗る時につけるバンドや。これつけとったら船でも酔わん。船でも酔わんのやからバスぐらいどもない。釣り研の顧問のこの俺が言うねんから間違いないんや。このシックオフは釣り具屋に行ったら売っとる。」
とまあ、こんなことを付け加えて、その日は解散したのである。
それから数日後、保護者向けの修学旅行説明会の席上で思わぬ質問がだされた。祖父とおぼしき方が挙手され
「先生、ミヤ・シックオフは本当に効くんですか。」
と尋ねられた。この質問をうけるや、司会者が
「この件につきましては、ミヤ・シックオフの権威アンコウ先生にお答えねがいます。」
と言ったものだから保護者は大喜びだった。
「効くか、効かんかよう知りませんが、相手は子供。もし買っていたら絶対に効くと言うてください。それだけでも心理的にかなり効果があります。」
と僕は言って席に戻った。するとお母さんから追い討ちがかかった。
「この辺りの釣り具屋では売り切れになっています。先生が仰ってから三年生が一斉に買いに行ったのでうちの子は買えないでいます。何とか学校で共同購入して戴くわけにはいきませんでしょうか。」
このお母さんが発言するや、他の親達も、拍手で賛成した。
結局言い出しっぺということで、僕と釣り研の顧問の大山さんが窓口に指名された。仕方なく申込者を募ったら三百名中百五十余名が申し込んだ。喜んだのは釣り具屋で、早速百五十余のミヤ・シックオフが用意された。僕はもうただただあきれるばかりであった。
そして迎えた修学旅行。グランドに整列した身なりもきちんとした中学生が両手首に赤いバンドを巻いているのだ。
「なんじゃあれは、派手なもんをつけやがって。」
とそこで気がついた。そう、あれこそが、ミヤ・シックオフなのである。
学生服に赤いバンドの集団は一糸乱れず出発していった。