自立

 

Nは、少し潤んだ目で、しかし、しっかりとぼくの目を見て、震えた声で言いました。

「もう、この仕事をやめたいと思っています」。

今時の高卒1年目なら、これくらいのことは普通に言うのだろうと冷静さを装いながらも、さすがにがっくりときました。ここまでの苦労を忘れたのか、という気持ちと、よほど辛いことがあるんだろうなという気持ち、なかなか複雑です。とりあえず、やめるのはいつでもできるから、3年間、だまってがんばってみろと、ありきたりのことを言ってその場をしのぎました。なぜか、ぼくの声も多少震えていました。

 

「どうしても車の仕事がしたいです。雇ってくれるところがあれば、どこへでも通うし、それができたら、どんながまんもしてがんばります」という言葉を聞いて、何とかしてやろうと思わない人はいないでしょう。ハローワークの担当職員の「そんなことを言っていたら、就職は無理。求人があれば、どんな仕事でもがんばりなさい」という言葉をNと一緒に神妙に聞きながら、「何とかしてやる、まかしとけ」と口に出すほど自信はないけれど、何とかしてやりたいと強く思ったことでした。

 

とりあえず、地域の中古車屋さんを、かたっぱしからまわっていきました。客のようなふりをして、まず、一台一台をじっくりと見てまわります。そうすると、店員さんが近寄ってきてくれます。そして、一言「きれいですね」と始めます。真夏の炎天下、蒸し風呂のような車にもどったとき、中古車の見積表をしっかりと手に握っていることが何回もありました。

 

やる気の伝わる目つきや姿勢、あいさつ、仕事の確実さやていねいさとスピード、どれが欠けても、事業所に強く推していくことは難しい。実習の帰り、厳しいとは知りながらも、「その歩き方や姿勢が『今日の仕事はきつかったです。ぼくには無理かも知れません』ということを語っている。それでは、普通は雇いたくはならない」と言い続けました。

「疲れてません。普通に歩いているつもりです」というNに対して、

「それを判断するのは、会社の人や、お客さんだ」とつきはなしたこともあります。

 

厳しい実習が続きました。期待以上に良くがんばりました。いい職場で、N自身もとても気に入り、ここで鍛えてもらいたい、そう思うところもありました。「仕事はよくがんばっているので、時間をかければできるようになるでしょう。ただ、お客さんが彼の仕事振りをどう見るかです。お客さんの目が届かない職場でなら問題はないと思うのですが・・」。厳しい現実でした。

 

普通、高等学校を卒業して就職する場合、いくつぐらいの求人票を見比べて就職希望先を決定していくのか知りません。ただ、ここしかないという状況はないのではないかと思います。一生続けると決まっていることではないけれど、やはり、いくつかの中から様々な条件的なことを考慮していく中で、「ここで働きたい」とか「ここならがんばれそうだ」と、決定していくのが望ましい形であると思います。

 

「自己選択と自己決定、自己責任からなる自立」ということが、言われます。求人がないのでとか、ここしか働く場所はないですよ、というような状態で、何が自己選択かということになります。選択できるだけのものを、目の前にそろえてやること。まず、このことが必要です。どうしてもつきたい職業があるなら、数年間は下積みでがまんするというようなことも、普通にあることと思います。卒業と同時でなくても、何とか納得して就職できる仕事先をみつけてやりたい。寝ても覚めてもこのことが頭から離れませんでした。

 

本人の、どうしてもこの仕事につきたいという気持ち、何とかそれを実現してやりたいという周囲の気持ち、この二つが強く願い続けられれば、かなわないはずはありませんでした。

 

大手自動車メーカーT、その子会社S、大手自動車メーカーT系列中古車販売店、Q自動車総合センター、S運送株式会社。卒業を前に、最終的には5つの自動車関連事業所から、採用可能の話をいただいたことになります。それら5社の求人票をNの前に並べ、「さあ、好きなところを選べ」と言いたかったと今でも思います。時期的なこと、条件的なこと等から、それは残念ながら実現しませんでしたが。

 

Nは、自分の希望通りの仕事に就きました。自分の力でそれを達成したのです。自己選択、自己決定です。そして、1年経たずして「もう、やめようと思っています」と言いはじめたのです。もし、今やめたらどうなるか。可能性のある厳しい状況については全て話しました。あとは、自己責任において決めればいいことです。とりあえず、今は好きな野球(こっちは機嫌よく自立しているようです)に打ち込んで、まぎらわしているようです。

苦労して就職して、仕事で悩む。しんどくなってやめたくなって、何とか気持ちをまぎらわせながら続けている。なんという美しい自立の姿でしょう。

 

「先生、仕事は厳しいですね」

「まったく、その通りやな。先生が仕事で一番厳しかったのは、君の進路のことや」

「・・・。今度は、ぼくがおごります」

「うん、今度は焼肉にしよか」

などといいながら、二人でお好み焼きをつつく時間は、なかなかいいものです。

 

P.S 

先日、久しぶりにNからメールが届いたので少し紹介します。

「…洗車はまだ時間がかかるけど、お客様に出してもよいレベルになってきました。…失敗をして、少しずつですができることが増えていってます。

P.S バッティングセンターで、ホームランの的にあてました。まぐれか?」


小窓からの風景『おふろにはいろう』