「あいぃ」のこと 2  

―父親として―

 

1 小学3年(男子)の場合 

子 「○○ちゃんってなあ、ぼくのいうこと聞くねんで」

母 「なに、それ?」

子 「〜しろとか言ったら、そのとおりするねんで」

母 「ちょっと、あんた、○○ちゃんに何させてるの?」

子 「△△とか、□□とか」

母 「しないといけないことをしてなかったら教えてあげたらいいけど、変なこと言ってさせたらだめ」

子 「うん、わかった」

自分とは違う、または、自分のほうが優位に立っているように感じる相手に、よからぬ働きかけをしてその反応を楽しむ。それは、人権という観点から考えると、まさに許される行為ではありません。父親としては早速にでも事情聴取し、その後の対応を指示したり教育したりすべきところです。

 

2 小学6年(男子)の場合 

子 「○っきーはな、ある意味天才やで」

父 「どの意味や」

子 「図鑑のこととか、全部覚えてる」

父 「えらい、かしこいやないか」

母 「最近、一緒に遊んでるの?」

子 「遊んでへん」

母 「いじわるしてるのとちがうの?」

子 「してへん、前みたいに話しかけてこんようになったから」

父 「きらわれたんちゃうか」

子 「それはないと思うけど」

低学年のときから「○っきー」と同じクラスで、なぜか気に入られていたようでよく行動をともにしていたようです。小さいときから「何か、変わってる」と感じながら一緒に過ごし、でも、わざわざ「○っきー」にあわせている様子もなく、でもやっぱり「変わってる」らしいです。運動会で僕も初めて見かけ、お互いに目をじっと見たままそらさず11メートル近くまで接近し、話しかけようとしたとたん、くるっと向きを変えて向こうにいってしまったことを覚えています。やっぱり、変わってると思いました。

 

3 中学3年(女子)の場合

弟たちの会話を聞きながら

「いいんか、そんなこと言って。障害者にはやさしくしないと」と言う割には、

子 「もう、小学校の先生にはならへんの?」

父 「何でや?」

子 「なんか、小学校のほうが・・・」と言ったり、

「福祉といえば、マザーテレサやな」と言ったり。

障害があるということについて、意識はしているけれど、自分とは特に関係のない別の領域のこと。障害のある人と自分たちとをはっきりと区別し、肯定的なとらえ方とともに、否定的なとらえ方も感じます。

 

子どもたちの通う学校にも、当然何らかの障害のある子どもたちがいます。その子ども達とのかかわりなど夕食時の話題になることもありますが、なかなか口をはさめません。養護学校で働く身としては、多少緊張しながら「まあ、そんなもんか。それでええか。」という感じで聞いています。

自分が「あいぃ」たちと過ごしていた頃のことを思い出し、指導すべきか、その程度なら問題ないか等、多少迷うことがないことはないのですが。

 

小さいほうは、まだ、いろいろなことを深く考えることができないので、自分とは違うと認識した相手のことに対して、正直な感想を述べます。「今度の英語の先生は黒人で髪の毛はくるくるやで」等。ものめずらしそうにその先生を見つめいている様子が目に浮かびます。

 

真ん中は、何年かのつきあいの中で、「ちょっと変わった友達」とどう接するかを学んできたようです。特別気が合うということもないので、自分から深い付き合いを望むこともなく、でも、きらったり遠ざけたりすることはないようです。

 

大きいほうは、すでに意識の中で分けて考えているようです。やさしく接するべき、でも、自分の父親が養護学校の教師というのは、何か友達に対しても言いにくいものがあるのかもしれません。

 

それぞれ、会話の中からの想像だけで、現場を見ているわけではないのではっきりとしたことは言えません。ただ、障害のある人とそうでない人との、微妙な関係性の一端が表れているような気がします。

 

障害の有無ということについて、目が悪くてメガネをかけているということ程度にとらえるには何が必要なのだろうと思います。目が悪くても、メガネをかけているから何も問題はない。だから目が悪いことでかまう必要はない。ただ、そのメガネが割れてしまったりしたら困るだろうなと思う。かわりに黒板の文字を読んであげようかと思う。そんな感じでどうだろうかと思います。「あいぃ」なら、どう言うでしょうか。


小窓からの風景『おふろにはいろう』