「あいぃ」のこと
いつも何かよくわからない身振りや手振りと「あいぃ」というような大きな声で話しかけてくるので、ぼくたちは彼のことを「あいぃ」と呼んでいました。
「あいぃ」の家はぼくたちの家とは違って二戸一で、近所では何となくお金持ちなんだろうということ、どこか遠くの学校に電車で通っているらしいということ、大きいお姉さんがいること、お母さんは何かいつも困ったような顔をしていること、そういえばお父さんはあまり見かけたことがないこと、「あいぃ」はぼくたちより大きいことは確実で、でも、いくつ上なのかはだれもはっきりと知らないこと、そういうような状況の中でぼくたちは遊んでいました。
近所で何人か集まると、ビーダン(ビー玉)やべったん(めんこ)、かんけりなどをして遊ぶことが多かったのですが、そんなことにあきると、そのあたりをぶらぶらと歩きながらいろいろなものをつついたり、ちょっかいをかけたりしてまわっていたように覚えています。そんなときに「あいぃ」を見かけると、みんなで「あいぃ」のあとをついてまわりました。おつかいか何かで出かける「あいぃ」のあとを、「あいぃーあいぃー」と身振り手振りを交えて叫びながら、「あいぃ」が怒った顔で握り拳をつくるまで、ついてまわっていました。
そのドブ川は、「あいぃ」やぼくの家のある通りのひとつ南側の細い通りと田んぼの間を流れていました。幅・深さともに約1m、3面コンクリートにおおわれていて水深は通常2〜3cmでした。底には緑色の藻のようなものがうごめいていて、不用意に動いてぬるっと足をすべらせることもよくありました。大きなドブネズミもよく見かけました。
そのドブ川の水を飲めというようなことを「あいぃ」に対してみんなで言ったことがあります。ぼくたちの中で一番大きいマー坊が、身振り手振りで「この水を飲め。とてもきれいでおいしいぞ」というようなことを「あいぃ」に伝えます。つぎにトヨ君やテッちゃん、ぼくたちで「おれたちはもう飲んだ。とてもおいしくて、かしこくなった」と言います。「あいぃ」は、ぼくたちの顔の前で指をくるくるまわして「ぱー」とやりました。「そんなものが飲めるはずがない。おまえらはばかか」いうことです。ぼくたちも指をくるくるとやり返しました。そんなやりとりを何回かした後、マー坊がドブ川の水をすくって飲む格好をして「こうやってやるんだ。はやく飲め」ときっぱりとした態度で言いました。「あいぃ」は「わかった」というような表情でドブ川にはいりました。そして向こうを向いてしゃがんで両手で水をすくいました。ドブ川からでてきた「あいぃ」は、服のそでで口もとをぬぐいながら「本当だ。とてもおいしい」という笑顔を見せました。本当に飲んだのか、飲んだふりをしただけなのか、今ではよく覚えていません。ただ、「あいぃ」は本当にばかか、とてもかしこいかどちらかだと思ったことを覚えています。
家から歩いて2分くらいのところに、国鉄の踏切がありました。踏切といっても人が通るだけの広さしかないので、警報機や遮断機もありません。踏切自殺があって、生々しい現場を見たこともある場所でしたが、ぼくたちにはいい遊び場所のひとつでもありました。
そのころぼくたちの間で流行っていたのが、十円玉を線路の上において電車に轢かせる遊びでした。上手に線路の上において上手に轢いてもらうと、十円玉が少しぐにゃっとまがってうすく伸びるのです。それがどうしたということはないのだけれど、そういうことに熱心に取り組んでいるときがありました。線路に耳をあてると、遠くカーブの向こうに電車が近づいてくるのがわかります。そして十円玉を置く。姿をみられては危険なので、素早くそこらに身をひそめて電車が行き過ぎるのを見届けます。
その日も真剣に遊んでいました。よりスリルを味わうために十分に電車をひきつけてから逃げることにチャレンジしていました。電車の音が近づいてきました。そして、耳をつきさすように警笛を鳴らしました。これまでの最高記録だったと思います。ぼくたちはいっせいに、田んぼのへりに身をひそめました。でもぼくたちの動きを一瞬見落とした「あいぃ」が線路のそばに残されました。電車が大きな軋み音をあげて止まりました。ぼくたちは、逃げました。
何日かして、2〜3人のスーツを着た男の人が「あいぃ」の家を訪ねてきているのを見ました。電車を止めてしまったので、そのことで国鉄の人が来ているらしいということでした。「1分止めただけで、えらい賠償金がいるらしい」という、今回の「国鉄事件」を、まったく他人事にしてしまったようなうわさ話がぼくたちの間で広がりました。
どのような話になったのかマー坊が教えてくれたように思いますが、よく覚えていません。でも、しばらくは誰が言うともなしに、「あいぃ」とはかかわらないような方向で動いていたように思います。
いつもの空き地でぼくたちが野球をしていると、自転車に乗って「あいぃ」がやってきました。いつものように身振り手振りで何か言っています。ぼくたちも手を振って大きな声でさそいました。「おー「あいぃ」!一緒にやろか!」。でも、「あいぃ」は自分が着ている詰襟の学生服を指さしてから大きく手と首をふりました。「俺はもう中学生や!お前らと野球なんかしてられるか!」とでも言っていたのでしょう。詰襟の学生服を着た「あいぃ」は、何となくかっこよくて、少し遠くへ行ってしまったように感じました。「あいぃ」はしばらくぼくたちの野球を見てから、また自転車で帰っていきました。打球が飛んでくることを気にしながら「あいぃ」の背中を見て、ぼくは、これからは気軽に「あいぃ」とは呼べないなと思いました。