おてらで
かんがえたこと
(平成一五年度 長期社会体験研修記録)
Y市立Y養護学校
はじめに
研修先 O市 P 寺
研修期間 平成一五年九月一日(月)〜九月三〇日(火)
体験内容 (担当業務等)
・境内、本堂の清掃等
・霊園の管理業務
・動物霊園の補助業務
・拝観者への接遇
その他必要とされる業務
長期社会体験研修というかたちで一ヶ月間学校を離れるということは、かなり不安を感じながらも、久しぶりのわくわく感を感じるものであった。
研修先としては、自分が将来なりたいと思っていた職業をあれこれと思い出しながら考えたが、結局、ここ最近でもっとも自分にとって興味深い場所であり、入り込んでみたいと思っていたところであるおてらを希望した。
宗教的な事柄が含まれてくるというので、研修先として承認されるには多少関係機関の理解と協力を得なければならないようだったが、無事、おてらでの研修を認められ、研修先には迷惑であることは承知しながらも、一人やる気に満ちて研修をはじめることになった。
具体的に、何をどう学ぼうというものはなかった。おてらという場所で一ヶ月間を過ごし、お坊さんやいろいろな人と話をしたり作業をする中で、何か感じるものがあればいいと思っていた。
そして、それは、期待していた以上に自分にとって重く深いものとなった。
草引き
草刈りや草引きに真剣に取り組んだことがないので、草をまんべんなく刈ったり引いたりすることは、意外に難しい。今回、仕事として長い時間自分なりにまじめに取り組んでよくわかった。
完璧にできたと思い見回すと、しっかりと残っているものがある。見て見ぬふりをしたわけでもなく、引いたあとからさっそくのびてきたわけでもない。ただ、足下にあって気がつかなかっただけのことらしい。
まず足下から徹底するとか、後ろ向きに進むとか、いろいろ作戦を考えるが、それでも、終わったと思って見回すと必ず一、二カ所はわざとのようにきれいに残っている。
またかと、あきれることもあるが、それを引くとき、何となく気持ちいいような感じもするのでそれでもいいかとも思う。
とりあえず、今の自分の足下は何であるかをじっくりと考えたり、しっかりとかたまっているかを反省したり、これからのことを何となく考えたりできた。
掃除
自分の家でも、もちろん学校でも、これほど集中して力をこめて掃除をしたことがない。
箒を使い注意深く丁寧に掃く、固く絞った雑巾を両手にひたすら廊下を走る。誰かに見られていて、注意されたりほめられたりするわけでもなく、また、何か特別楽しかったりあとに喜びがあるわけでもない。
それでも、ちりひとつ残さないよう、ふき残しのないよう、力をこめて一心に取り組んでいることに気づく。
ふしぶしがこわばってくるが、別に我慢しているという感じでもない。境内を竹箒で掃いているときもそうであった。落ち葉などをひたすら、ていねいにはいている。
昔、田村一二さんの本で周梨槃特という人の話を読んだことがある。周梨槃特は、今でいう知的障害のある人で、お釈迦様に与えられた一本の箒で悟りを開いたということである。
掃除というものがおもしろくておもしろくて仕方のないものになり、その喜びやうれしさが、心の底いっぱいに静かな喜び、楽しさとなって沈滞したとき、お釈迦様は、その後ろ姿を見て、槃特よ、とうとうできたねとおっしゃったそうである。
そういうことを思い出しながら、また、せっせと掃除に取り組んだ。
箒
「使いやすい箒を選んで下さい」といわれても、ちょっと掃除するくらいどれでもかまわないと思い、安易に一番近いやつを手に取る。
せっせと落ち葉などをかき集めていると、てのひらが痛くなってくる。握りの部分が細くて、しかも、きれいな円になっていないことに気づく。また、細かいごみが、きれいにはききれないことも、気になってくる。箒の先の状態が、よくはわからないが、よくないらしい。
ちょっと掃除するぐらいではなく、二時間ほどきっちりと勝負しようと思えば、いわれたとおり、箒選びは慎重でなければならないと痛感した。
それならば、雑巾も同じである。折りやすさ、重ねやすさ、滑り具合などにこだわり、その材質と大きさを追求しなければならない。要するに、自分にぴったりと合った自分だけのマイ箒とマイ雑巾があればいうことはない。
とりあえず、いまのところそこまでする必要もないかと思うが、それなりのことをするには、やはり、それなりの道具が必要であると思った。
環境
良い環境であるといういうことは行く前からわかっていたが、実際に一日を過ごしてみると、やっぱり、良い環境であったと心から思った。
静かであり、それでいて、自然の音、生き物の鳴き声、鐘の音等が聞こえる。その時々に自分なりに仕事に集中していて、その時々に聞こえてくる様々な音に耳を澄ます。
疲れたら、上を向いてふーっと深呼吸する。そして、また、せっせと仕事に取り組む。そういうことが自然にできる環境であると感じた。
坐禅をすると感覚が鋭くなると聞いたが、こういう環境で生活することでも感覚は鋭くなるのではと思った。人を相手にする仕事を続けていくからには、感覚はやはり鋭く持ち続けていたい。
掃除U
境内の石畳を竹箒ではいた。真ん中あたりで一度掃き集めたものを処理する。残りの半分にとりかかったが、たいして、落ち葉などのごみといえるものは落ちていない。砂が少しある程度。へたに掃いてしまうより、何となく、そのままの方が自然な感じがしていいのかなと思い、そっとしておくことにした。
「もう、全部おわりましたか」と聞かれ、やばいと思ったが、後に引けず、「はい」と答えた。でも、見ればわかること。大失敗だった。
よごれの程度や、原因、種類は問わない。掃除をするということは、もとのままのきれいな姿に戻すということなのであると改めて気づいた。毎日のよごれは、毎日おとす。ただ、それだけのことなのである。
「掃除の一つもろくにできない人は、なにをやっても中途半端になります」という言葉は、十分にこころに突き刺さるものだった。掃除の一つくらい、納得のいくまでやってやろうと心に誓った。それは、思ったより簡単なことで、一生懸命やって、きれいになると、気持ちが良い、そういうことを感じればよいだけのことだった。
家の掃除もそうしていけるよう、努力している。もちろん、トイレも休みの日は進んで行うよう心がけている。こまめにきれいにしたら、掃除は、そうたいしたことではないと、改めて気づいた。
そして、自分のこころの掃除も、気持ちよく過ごすために、欠かすことができない。毎日、その日のうちにきれいにして、気持ちよく過ごす。そういうことが、良い仕事にもつながると思っている。
自分のこと
慣れない環境で慣れないことをするのは、当然疲れる。一日の流れがわからないと、不安で、説明を聞くと少し安心、実際に見たり、やってみるとかなり安心できる。
自分のすることがわかると、落ち着いてそのことに取り組める。
休み時間は、何となく落ち着かず同じところをうろうろしたり、一人で本を読んでいたりする。作業をしながら、なるほど、などとわけのわからないことをぶつぶつとひとりごとのようなことを言うこともある。
視覚優位とかコミュニケーションがどうしたとか、そういうことを思い出しながら、自分もそれなら同じだと思った。とりあえず作業終了の報告はできるが、分からないときなど、どの程度まで自分で考えて、判断して、どのタイミングで聞くべきかなどかなり迷ったりする。そういう段階で、これなら、生徒たちと同じようなもので、そのことを、そう大きな問題として考えることもないかなとも思った。
まず、自分がどうであるかを認識して、人と接するようにしようと思う。
かたち
坐禅堂では、決して両手を振って歩かない。必ず両手を重ね合わせた叉手の姿勢で背筋を伸ばして歩く。要所要所で合掌と礼があり、姿勢の取り方にも、決められた型がある。
そうしなければ、何かとんでもないことがあるかといえば、そうではないとは思うが、精一杯正しくやってみようと思う。そういう雰囲気が坐禅堂にはある。そして、不思議なことに、そうすることによって、それらしい気分が高まってくる。
「中身が大事だから」は、その通りではあるが、かたちもかなり大事で、場合によっては、かたちから入る方が良い場合があるに違いないとも思った。
長い時間をかけてつくられてきたかたちは、多くの人の様々な考えに基づき、それなりのさまざまな問題にも耐え、息づいてきたものである。
そのかたちを一生懸命まねする、また、そのかたちを一生懸命教える。
そういうことから、大事な中身がじわじわと身に付いてくることもあるような気がする。動作の学習とか、応用行動分析に基づく指導というものも、まさにそういうことの一つかもしれないと思った。
調える
坐禅は、姿勢を調えることと、呼吸を調えることで、こころを調える。
なるほどと、理解はしやすいが、やってみるとかなり難しい。目のおとしどころさえ、なかなかびしっと決まらない。
姿勢は、動作の学習の時によく言う、天井から糸で引っぱられているような感じを意識して正し、呼吸は、深く、鼻から出て行く息を見る感じを意識して行う。
それでも、聞こえてくるいろいろな音から様々な考えが浮かんできたり、ふと、思いだしたりしたことを、あれこれと考えようとしてしまう。
何回かするうちに、よく力が抜けていることを実感できたり、自然な呼吸で、その状態が気持ちよく感じるときもあった。吹き抜ける風を、何とも言えず自然に感じ、いつまでもこの時間が続けばと思うこともあった。
こういう、わざわざ時間をとって、ただ、座り続けるということは、普段の自分の生活を振り返ってみると、大切なことであるように思った。
何をするにも、姿勢と呼吸は調えておきたいと思う。特に、忙しいとか困ったとかいうときには、それを意識したいと思う。
キャッチボール
おてらで、草を引いたり、ほうきではいたり、ぞうきんがけをしたりしているとき、よく、キャッチボールをしたいと思うことがあった。
進路指導の担当となって直接子どもたちとのかかわりが少なくなってしまったことや、その上、初めて学校からしばらくの間離れて過ごしたことが原因かもしれない。
要するに、この仕事を始めてこれまでの十何年かの学校生活の中で、特に自分にとって重要であったことはキャッチボールであったのだなということである。
選手としてではなく、誰かの相手としてキャッチボールをしたのは、大学の時のアルバイト先である肢体不自由施設であった。股関節の疾患で入院しているその子は、早く広いグラウンドを走り回りたくてたまらないように、思い切りボールを投げ込んできた。その伸びのあるボールを受けることに夢中になり、看護師さんに注意されるまで続けたことを思い出す。
また、学童保育に行くのがいやでたまらない小学一年生の男の子は、ドッヂボールを小さい体いっぱい使って投げ込んできた。涙と鼻水で汚れた顔に笑顔が見られるまで、いつまでも投げてこいと思った。
「おとなになったらやきゅうせんしゅになる」という、身体が自由に動きにくい三年生の男の子は、「今のボールはどう?」「つぎはカーブ」などといいながら、また、懸命にいわれたとおり肘を伸ばす努力をしながら、ゴムのボールを投げてきた。
投げたり受けたりするだけではなく、打たせることも大切なことであった。何回かのスイングから、そのスピードと軌道を頭に刻み込み、まさに、ここしかない、というところに投げ込む。ライナー性の鋭いあたりがでるまで、投げる。打てないのは、全て投げる側の責任。必ず打たせる。
スコーンと打たれ、がっくりとひざをつきうなだれる。僕のその姿を見たら、どんなに落ち込んでいても、いらいらしていても、たいていの場合、子どもたちは満面の笑みを浮かべた。
キャッチボールをしたり、野球をしたりする中で、そういう一人ひとりの心の動きを感じることができたと思っている。
自分自身と向き合う時間というのは、もしかしたら一番といっても良いくらいの幸せな時間であるのかもしれないと思うと同時に、だからこそ、そのことをもとに、だれかと本気で勝負していきたいと思う。
そのことの一つの形として、キャッチボールとか野球というものに取り組んできたように思うし、これからもより追求していきたいと考える。
自分自身の足下とか構えを十分に確認しながら、姿勢と呼吸を調え、目の前の相手のことに全てを集中させる。一つ一つのボールに思いを込め、また、込められた思いを読みとり、それでいて、ただ、キャッチボールを楽しんでいる。そういうことに、できるだけ多くの人と多くの時間取り組む。
それが、今後のことを考えたときに、自分自身の大きな課題の一つとしていきたいと考えている。
願うこと
昔から、お寺とか神社とかに何となく興味があったように思う。
お坊さんの一日に興味があり、機会があれば、お坊さんの一日を経験してみたり、お坊さんの本当の考えをいろいろ聞いてみたいと思ったこともある。
それで、この研修の話を聞いたとき、それを実現させるまたとない機会であると思った。そのことで、なにか特別に身につけたり、充実した研修をしたいという気持ちはあまりなかったが、とにかくいって一ヶ月を過ごしたいと思った。報告ではなかなかうまく書けなかったし、見たところ、とくに変わったところもないと思われるが、今回の研修内容に自分としてはかなり満足している。
と同時に、願ったことは、何かの弾みでもかなうことがあるのだと思った。願わなければかなわないので、これからも、あれこれ自分の都合の良いことをこっそりと願い続けようかと思う。