小窓からの風景『おふろにはいろう』



温泉で

 

日帰り温泉というようなところには、普通、日常の疲れをいやしたり、心身の調子を整えたりするために行くことが多いのだろうと思います。少なくとも私自身そうであるし、そこに来ているおじさんたちの会話や様子からもそれは容易に想像できることです。だから、私は、なるべく人の少なそうな日時を選び、すいていそうな温浴施設に行くことが多いのです。お湯の質がどうとか、施設設備がどうとかより、いかに自分のペースでリラックスできるか、これに尽きるのです。

 

「○○くん、こっちこっち」

「ほら、ここにこうしてああして。ほら、はやくはやく!」

「△△ちゃん、そっちにいかないよー。ここでじっとまっててねー」

「せんせー、きがえのパンツがありません!」

「もー。だから、あのときにあれをこうしときなさいといったでしょ!」

「こらーっ! ××っ! ええかげんにせえよっ! こっちこいっ!」

 

などという途切れることのないない指示の声、叫び声、怒号がとびかう温泉というのはどうでしょうか。しかも、対象が5人や6人ではなく、学校として利用している20人や30人の団体なら。

 

リラックスどころの騒ぎではないでしょう。騒がしいし落ち着かないし、何かされるか言われるかと不安もあるし、泡を飛び散らせるし、泡のまま湯船につかるし、テレビの前に立ちはだかるし、そこらじゅうに寝転ぶし…。

 

刺青以外なら(これは、「当局の指導により…」などと入り口によく書いてあるので…)誰にでも温泉を楽しむ権利はあるし、何より教育活動の一環であるので、多少のことはみなさんがまんしてくださいという形ではあります。ただ、どう考えても、他の一般のお客さんの大部分にとっては、これは迷惑この上ない状況であることに間違いはありません。自分が引率しているにもかかわらず、そう思います。

 

当然の権利として温泉入浴を楽しむ、日常生活指導の一環として入浴指導を行う。ただ、それだけのことが、他の人に迷惑をかけてしまうことにつながってしまうかもしれない。

どう考えたらいいのでしょうか。

 

安易なようではありますが、やはり、その形、簡単にいうとその数が大きな問題の一つであり、不自然な形になっているような気がします。対象児童生徒が一人や二人なら、引率者を含めてもその集団はコンパクトで、そう騒々しくはないはずです。自分たちの生活−ここでは1000円足らずを支払って得た一時間足らずのリラクゼーションタイム−が脅かされる心配がなければ、周囲の一般客は、その様子をじっくりと眺める余裕もあるだろうし、知らん顔をできるようにも思います。

 

同じような形に、障害のある人の成人施設のお楽しみ行事としての買い物があるように思います。10数人の大人がジャージ姿でショッピングセンターでの買い物を楽しみます。引率する若い職員も、ジャージ姿です。最近は、休日のお父さんのジャージ姿や若者のだぶだぶジャージ姿もよく見られるので、ここではおそろいのジャージ姿には深入りしませんが、でも、その光景は周囲に溶け込んでいるとは言い難いものです。いつもではなくても、それぞれが行きたい時に、したい格好で買い物に行けたら、そう不自然な形に見えることはないだろうと思います。

 

数ということで言えば、知的障害のある子どもの養護学校の巨大化というのもかなり不自然な形です。大型バス5,6台を走らせ、広大な校区から児童生徒を集めてくる。その数200名以上。高校生ともなれば、電車・バスを利用して一時間程度の通学は普通でしょう。でも、小中学生の場合は、ある程度の町であれば、やはり、徒歩もしくは自転車が基本と考えたい。じっとしているのが嫌いな子も、バスの揺れが身体に良くない子も、一時間程度バスに揺られてくる。バスが大好きな子には、毎日楽しくて仕方のない時間でしょうが、そうでない場合は、しんどいに違いありません。専門的な指導・支援、充実した設備、あるい何らかの安心感のようなものを期待してのことではあるのと思うのですが…。

 

命にかかわるような何か障害があるのなら、ある程度無理をした形での対応というのは必要になるでしょう。でも、そうではない場合、もっともっと自然な形で学校教育を受けさせる、それが、本人も含めてそれにかかわる人たちに特に負担を感じたりかけさせたりしない状況というのが、やはり、目指していくべき形ではないでしょうか。

 

小学生であれば、家から一番近い小学校に近所の子どもたちと登校班で歩いて登校する。これが、多くの場合、普通の形になるのではと考えます。とりあえず、ここをスタートとすることからはじめたいと考えます。当然、障害の状況に応じて個に応じた指導・支援が必要となるので、教育課程や指導形態は徹底的に考えつくされなければなりません。養護学校にできて、小学校にできないこと、本当にそれがあるのか、あるとすればそれは何なのか。それを何とかしようとすることと、いまある不自然な形にまかせてしまうこと、二つに一つではないにしても、どちらを基本のスタンスとするのか、そういうことを、具体的なモデルを通して考えていくことができたらと思っています。