小窓からの風景『おふろにはいろう』

「何もわかってないし…」

 

むかし、脳の機能の障害で身体が思うように動かせない児童とからだの学習に取組んでいたときのことです。陽のあたる暖かい部屋で二人、適度にリラックスしながら、寝ころんだり座ったり立ったり、曲げたり伸ばしたり、力を抜いたり入れたりしていました。一通りの学習を終えて、二人向かい合ってくつろいでいたときのことです。あぐら座に座った児童は、にこにことした目で僕の目をじっと見ていました。にこにことして、多少頭をゆらゆらと揺らしながら、くちもとからは粘度の低いよだれをすーっと落としながら、僕を見ます。全体的にやせ気味で、浅黒くかさかさとした肌。股関節は上手に脱力し、リラックスしたあぐら座。また、力は入っていないように見えますが、背筋はしゃんと伸びています。窓を背にしているため、後ろから光が差し込んでいます。二人で何となく見つめ合う時間がありました。どこかで見たことがある、そう思いました。インドのお坊さんです。実物を見たことはありませんが、間違いなくそうである、しかも、これはなかなか位の高い人だ、そう確信して、思わず正座しました。これはこれは、こんなところで、お世話になっております。いろいろなこと、なかなか上手にできなくて…。こんな感じです。

 

田村一二さんの「ぜんざいには塩がいる」のなかにこんな一文があり、読んでみてなるほどと感心したりなんとなくほっとしたのは、もう今から20年ほど前のことです。

「いうことをきかん、先生のいやがることをする、先生に乱暴をするというのも、子どもが先生を試しておることがあるという。先生もいろんなテストをして子どもを試すけれども、子どもも先生を試しておることがあるという。ただ、そのやり方が大人のテストとちごうて、わざわざ先生の前で小便してみたり、脱糞してみたり、先生に噛みついてみたり、大人からみたらどうしようもないことをやる。それで、わいわい騒ぐと相手は、ははん、こらまだあかんなと思うて続ける。呑気な顔ができるようになると、ははん、この先生は及第やというようなことで、子どもの方のテストは終わるというようなこともあるらしい」

 

いろいろな状況の子どもとかかわってきました。それぞれ生きにくい状況の中で、それぞれの持っている力をやりくりしながら生きています。そして僕は、そのことにどうかかわっていくのか。どのように受け止めて、どのように考え、どのように話しかけ手をさしのべていくのか。そのことを試されているというか、何というか、そんな感じです。

 

だから、どんな子どもも僕は、最後のところでは、子ども扱いはできないのです。

交通事故で遷延性意識障害と診断され、見えているのか聞こえているのかも定かではなく、体中の筋肉が硬くこわばってしまって自分で動かせるところがなくても、それは同じです。

 

「××くんは、ぎゃーぎゃー言われても何もわかってないし…」とか、

「話がわかるのは、△△と☆☆くらいかな。あとは、全然反応ないし…」とかいう言葉が平然と飛び交う環境というのは、これ以上ないほど僕には耐え難いものなのです。

 

田村一二「ぜんざいには塩がいる」 −障害児教育の原点−  柏樹社  1985