『障害児』と『障害のある子ども』
『障害児』と『障害のある子ども』この二つの言い方を区別しなくてはいけないのでしょうか。おそらく、この問に答えるためには、そもそも障害・障害児ってなに?というところから出発しなければならないと思われます。そこで、障害の定義について考えていきたいと思います。でも、こうしたことを考えるのは意味があるのでしょうか、抽象的な言葉遊びをしている時間があるなら、実践活動(看護・介護・教育)に費やした方が、意味があると思われる方も多いと思います。その答えは、一度、抽象的なことを考えてから求めてみればいかがでしょうか。
教育法規に照らすならば、学校教育法第71条の2、学校教育法施行令第22の3にそれらしいことが書いています。しかし、それは障害の程度を示すもので、障害そのものを定義するものではありません。
障害児を常識的なところで定義すれば、「身体ないしは知的な不可逆的故障により日常生活の遂行に支障をきたしている子ども」あたりではないでしょうか。
しかし、厚生労働省管轄では、心臓ペースメーカーを使用する者は、以後の日常生活の遂行にさしたる支障がないにも関わらず、障害者として認定されています。
また、自閉症・アスペルガー症候群等広汎性発達障害は、医学的にもその存在を認識されだしたのは1945年以降ですし、障害の仲間入り(社会福祉的意味で)を果たすのは、近年になってからのことです。自閉症・アスペルガー症候群が1945年に忽然と現れたとは思われません。以前から存在していたものを、1945年に医学的に検証されネーミングされただけだと思われます。言い換えるなら、自閉症・アスペルガー症候群の子どもは、それ以後、「障害児」の仲間入りをしたと言うことになります。
このように、二三の事例を見るだけでも、「障害児」の過不足なき定義は、存在していないといえます。
1970年代には、そもそも障害者などという者は存在しないのだという主張が、人権運動の市民運動化の中で展開されたこともあります。丁度、そのころは、シカゴ・ソシオロジーのシンボリック相互作用論に影響されたハワード・ベッカーの「アウトサイダー」や、アーヴィング・ゴフマンの「スティグマの社会学」などが日本で出版され、そうした人権市民運動の雰囲気の中で、矮小化されたレーヴェリング理論(ハワード・ベッカーの理論とは似て非なるもの)が闊歩しました。以上が、概観です。
で、じゃあ、結局どうなの?と言えば、「障害者(児)」とは、社会的存在であり、仮に医学的に基準を設けることが可能であったとしても社会的認知とネーミングなしには存在できないと言う意味では、他の社会的役割と同じであるということだけが、抽出されるというのが私見です。つまり、「障害児」の属性として障害があるのではなく、A君と言う「その人」の属性として障害があると言いたいのです。それは丁度、疾病の容器として患者があるのではなく、「その人」の属性として疾病があるのと同じです。
次に、社会的認知について考えてみましょう。
今日の日本のマクロ的価値観の一つである「個人の尊厳」から、彼ら「障害児」と言われる社会的存在(想定された)に対しても、社会福祉により一定の生活を保障しようとしています。つまり、この限りにおいては、マクロ的価値観の実践の対象として「障害児」は範疇化され区別化されているということです。もっとも、この価値観は、極めて変動しやすいものですから(10年単位で)、とりあえずは、21世紀初頭の価値観です。ナチの政策などは、近代国家の「障害者」排除でした。少なくとも、その時点での文化的範疇におけるマクロ的価値観が、障害者の定義(範疇化)と処遇に大きな影響を与えていることだけは事実です。
以上、マクロ的社会においての定義を述べてきましたが、ミクロ的(家庭・個人レベル)では、若干異なります。端的に言えば、科学技術の進歩で、何らかの支障を持ちながらも、人は生を確保できるようになって来ました。そして、その支障は、個人の生活レベルでは、困難を伴うことが多いのです。支障を持つ本人だけではなく、その家族も同じです。今日のマクロ的価値観は「障害者を受け入れる」ことを強要します(医療・福祉・教育実践者)。さらに、マクロ的価値観が家族の態度に影響し、「障害者(児)」の家族は否定的態度をとることに罪悪感を感じることが多くなってきています。こうしたマクロ的価値観からの呪縛は、それに対応するフォローが制度的に確立されていないとき、日常生活の困難さと不安感は、多くの場合彼ら家族の心身の疲弊を招きます。こうした時、彼ら家族は、子どもが「障害児」であるということを意識するよりも、生活上の具体的支障の方を意識します。例えば、CPの親は、車椅子での移動・食事・排泄等の介助を第三者が恒常的に援助すれば、その物理的支障は軽減されます。さらに、「障害児」も成人すると親との同居からの独立という方向に進むことができれば、精神的にも支障は軽減されます。この独立には、社会的・制度的保障が必要です。つまり、「障害者」が一人で生活するには、第三者の人手が必要だと言うことです。これが実現されない限り、「障害者(児)」の親は、安心して死んでいくことすらできません。このような場合、障害は、「障害を持つ個人」に対して意識されるのではなく、社会生活上の障害として、社会の欠陥として意識されることになります。つまり、「障害者(児)」から「障害のある人(こども)」の抱える社会的支障へと転換されるのです。
ますます、「障害児」の定義からかけ離れていくように思われるかもしれませんが、障害の定義とは所詮そのようなものなのです。その曖昧さは、アメリカ人を定義するのと同じです。私たち日本人は、日本人と日本民族をほとんど同じように考えています(実際は単一民族ではない)が、アメリカ人という人種は、そもそも存在しないのです。歴史的に長く住んでいる民族と考えるならば、アメリカインディアンとイヌイット(かつてエスキモーと呼ばれていた)というモンゴロイドたちなのです。ですから、アメリカ人という場合、多くは、アメリカ国籍所有者の意味になります。したがって、民族としては定義できないので、黄色・黒色・白色の人種を包括的かつ後国家的に範疇化してアメリカ人と呼称しているのです。
横道にそれたので本題に戻します。よく聴覚障害で、デシベルが基準として用いられます。知的障害ではIQ・DQ等。これらは、確かに一定の基準を示していますが、境界を何処に設けるのかは場合によっては曖昧です。さらに、医学的意味での障害、教育的意味での障害、社会的意味での障害、政策的意味での障害などが、事実上存在しており、それらは、各領域において異なっています。とすれば、こうしたことは意味のないことなのでしょうか。それは違うと思います。各領域の障害の定義モドキが、生活遂行上の支障を軽減する方向に機能するならば充分に意味があるのです。つまり、マクロ的価値観が、少なくとも現在のように「個人の尊厳」を重視し、その価値観の実践対象として範疇化された「障害」(障害者ではない)を持つ個人に対し、社会生活遂行上の支障をなくす具体的施策をとる限りにおいて、障害の定義化と範疇化は意味があると思うのです。このように考えるならば、「障害者(児)」という個人は存在するはずもなく、「障害のある人(子ども)」が存在することになります。なぜならば、我々のマクロ的価値観=「個人の尊厳」は、普遍的な個人の価値的平等に根ざしているのであり、個人の実質的平等の確立のために社会福祉があるからです。とすれば、実質的平等を確保するための範疇化は、個人の有する各属性について行われるものであり、個人そのものを対象に範疇化するものではないのです。ですから、個人の属性である障害をこそ範疇化され、結果として「障害のある人(子ども)」という言葉が選択されるのだと思うのです。
長々書きましたが、『「障害者(児)」の定義』は、医学的意味での障害、教育的意味での障害、社会的意味での障害、政策的意味等、各領域毎に存在しています。統一的な定義としては『障害者(児)とはある種の身体的機能ないしは生理的(脳も含む)機能に偏差を有する者に対し、その当時の社会的価値観により範疇化された集団』というのが、今のマクロ的価値観に合致した定義ではないでしょうか。
では、障害って何?と考えることは意味があるのでしょうか。当然、むしろ、その点が出発点であり、到達点なのだと思います。