
安部公房の示唆するもの 異文化交流・異文化理解
安部公房は、かつてもっとも良いインターナショナルは、良質のナショナリズムから生まれると記した。今日、教育現場で言われている異文化交流・異文化理解も、公房の視座に学ぶべきものがあると思われる。つまり、自己の所属する共同体(家族から主権国家まで)の文化を知ることが、それ以外の文化=異文化を理解するうえで必須であるということである。
人間は、社会的な生き物である。そして、教育は、自律的な人間を形成しようと試みている。自律的な人間であるということは、自己同一性が確立されている必要がある。この自己同一性は、自己の所属する共同体の中で、社会的に構築していく。そして、その共同体の言語は、自己同一性形成の過程において、決定的な役割を果たしている。なぜならば、自己同一性を形成していくには、様々な概念や認識を必要としているが、それらはすべて言語活動において賄われているからだ。共同体における使用言語=母国語は、自己同一性形成に不可欠であり、言語も文化である限り、自律的な人間の形成は、所属共同体の文化に依拠していると言い得る。
このように考えた時、はたして現状の異文化交流・異文化理解教育(国際理解教育)は、どこから出発しているのか疑問が生じる。自己の所属する共同体の文化の理解から出発し、異文化を理解しようとすることで最終的に、より深化した自己の所属する共同体の文化の理解へと漂着するもでなければ意味がない。なぜならば、異文化を理解することは、不可能であるからである。文化が異なれば、言語や様式が異なる。それだけではなく、言語を含め、多くにその文化特有の意味と情緒を有している。そうしたものを理解することは、事実的に不可能である。ここで、求められるのは、理解することではなく、理解しようとする過程であり、異文化に対する尊重なのである。この理解過程と尊重を確保した人間を、国際人と称することができるのではないだろうか。
このことは、同じ共同体の構成員間にも言い得る。例えば、日本人同士であっても、立場や属性が変われば、実際上理解困難である。しかし、理解はできないが、理解しようとする過程と尊重が存在した時、そこにはコミュニケーションが成立する。このコミュニケーションの成立こそが、異文化交流・異文化理解の目的ではないだろうか。
小学校で英語を教科として設置しようという動きもあるが、英会話の能力は身についたが、会話の内容を持たない(非自律的・自己同一性不全)人間を作り出していては意味がない。英会話は、事実上国際的なコミュニケーションの道具ではあるが、コミュニケーションではない。自律的で、コミュニケーションを成立させることのできる人間へと育むことこそが、教育の大きな柱ではないだろうか。
このように思案をめぐらすとき、四半世紀早く世に出た安部公房を思ってしまう。