JAL機再着陸事件が残した「藪の中」

 事件は、17日に発生した。新聞報道によると、宝塚市立長尾中学校の修学旅行生を乗せた大阪発JAL機が那覇空港に着陸しようとした時、同中生6名が座席から立ち上がり、客室乗務員や機長の再三の着席指示にもしたがわず、やむなく同機は着陸をやり直し、20分遅れで着陸したとのことだ(神戸新聞518日夕刊)。

 あきれかえる事態だ。まず、同校の引率教員は何をしていたのだろうか。修学旅行団の団長でもある校長は、一体どのような気持ちで事態の推移をみていたのだろうか。少なくとも、客室乗務員や機長の指示以前に、引率教員の教育的指導が行われたはずだ。しかし、結果として教育的指導は効果がなく、客室乗務員や機長の再三の着席指示にいたったのだろう。まさに、日ごろの教員団の教育の成果が発揮されたとしか言いようがないと思われる。

 しかし、519日の新聞では、長尾中学校が、事件の原因を語っている。「知的障害のある生徒がパニック状態になったため、近くの生徒らが教諭に知らせるために立ちあがった」と説明している(神戸新聞519日夕刊)。

 仮に、学校側の説明が、客観的事実に合致していたとして、この問題は一件落着となるのであろうか。いや、反対に、深刻さを増したということだ。

 理由は、以下の2点。

1.知的障害児のプライバシーの保護

2.パニックを生じることを予見し対応策を講じておくことは学校の安全管理義務である。

 知的障害児は、知的障害児として存在しているのではない。まず、一人の人間として存在している。そして、その人の属性として知的障害が付加されているのだ。したがって、知的障害を具有する仮にAさんとしよう、Aさんには、一人の人間として当然プライバシーがある。いわゆる情報管理権である。Aさん自らの情報の一つである知的障害という事実は、Aさんの意思に反して広く一般に報道される筋合いのものではない。それを軽々に、学校側がそのような情報をマスコミに語るのは公務員としての職務に反している。確かに、重大な反社会的行為(犯罪)の場合は、最低限の情報公開は避けられない。しかし、仮に、学校の言うようにAさんが、パニック状態に陥ったとして、一体どこに反社会性があるというのだ。

 さらに、この学校側の説明が事実だとしたら、JAL機の再着陸は知的障害児たるAさんに原因があり、席を立った6名は褒められる行為をしたことになる。もし、そうだとしたら、JALの客室乗務員はその間の事情を十分理解しているはずだ。百歩ゆずって、JALの乗員の思い違いだとしたら(学校側の説明が事実だとしたら)、なぜその間の理由を校長以下引率教員が、乗務員・乗客に説明しなかったのか。はなはだ疑問の残るところである。

 このような疑問に答えるかのように、520日の読売新聞は、学校側の説明を紹介した上で、JAL側の「そのような事実は確認していない。生徒はふざけて立ちあがったように見え、悪質ないたずらだと判断した」と述べている。

 そうした中、530日の産経新聞は、知的障害児の保護者たちが「学校側の説明は、知的障害者への差別や偏見を助長しかねない」と真相究明の要望書を市に提出したと報じている。

 宝塚市は、障害児を普通校で教育することに熱心な地区であるとされている。今回の、教育側の対応が、統合教育を後退させたことだけは事実である。

 少なくとも、今回の学校側の対応が、十分反論することのできない知的障害児に責任転嫁したという観だけは、拭いようのない事実として残った。

 もし、学校側の説明が虚偽だとしたら、彼らは知的障害を持つAさんと席を立ち乗務員の指示に従わなかった生徒たち(Bさん以下…)の双方を裏切ったことになる。濡れ衣を着せられたAさんを裏切ったことは、言をまたない。Bさん以下も、教育的指導をしてもらわなかった(叱ってもらわなかった)という点で、教師たちから見捨てられたのである。その意味で、被害者でもある。

 結局、こうして事件は、人々の生活の記憶からは消え去っていくのだが、感覚としての教師不信だけは心の奥深く確実に堆積していく。今、ここで、客観的事実を判断することはできない。しかし、学校側の対応が、教師不信を根付かせたという客観的事実だけは、明々白々である。

 今回の事件で感じることは、教育において、障害児だけの問題、健常児だけの問題というのはないということだ。表層では、それぞれ別問題のように表れてくるが、実は同根なのだ。少なくとも、同根だという認識のない教師には、統合教育は実践できないのだと痛感した。

 今回の事件が、すべての関係者にとって心安らかな解決をみることを願いながら筆をおくこととする。

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