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 ジェンダー・フリーを語るとき、実例としてランドセルの色が出されます。女の子が赤、男の子が黒というのがおかしいと。女の子が赤色、男の子が黒色というのが、生まれつきに持つ嗜好なのではなく、社会的・文化的に作られたものだということでしょう。しかし、色の好みが、社会的・文化的に構成されていると仮定して、何かそのこと自体に問題があるのでしょうか。案外、ジェンダー推進派の人たちは、単にランドセル一つの色をとってみても社会的・文化的影響を受けているという事実だけを述べたいだけかもしれませんが。

  

 でも、問題の本質は、ジェンダー(社会的・文化的性差)の存在を是とするのか非とするのかにあります。ジェンダー・フリーの推進派の人たちは、本当にジェンダー(社会的・文化的性差)の存在を非としているのでしょうか。確かに、一般的にはジェンダー・フリーは、社会的・文化的性差を否定し解消しようとしているものだと思われています。しかし、もし、ジェンダー・フリーがそのような理解であるとしたら、ジェンダー・フリーの人々は自己否定の論理を構築していることになります。 

 人間は集団的な営みをとおして社会(共同体)を形成します。そして、社会・文化は構成員に対し何らかの役割を求めます。社会は、それぞれ文化を持ちます。したがって、社会が異なれば、文化も異なります。異なった社会が相互に理解しようとするものが異文化理解であり、ともに生きていこうというのが異文化共生です。ところで、社会という概念は、その容量において変幻自在です。非常に小さな規模から、国家レベルまであります。日本社会というときは、大きなレベルです。このサイズを、全体社会と呼ぶことができます。社会には、もう一つ特徴があります。その構成員は、単一の社会にだけ所属しているのではなく、複数の(それもかなり多くの)社会に所属しているということです。                            

日本人で、県庁に勤める、分譲マンションに住む、女性の場合を、考えてみましょう。大雑把にいって、日本社会、県庁と言う職場社会、分譲マンションという地域社会に属していることになります。おそらく、本人は、それぞれの社会に所属しているとこを通常は認識しないでしょう。でも、海外旅行で差別された時には日本人を意識するでしょうし、県庁で県民からの要望に対応している時は県庁と言う社会(組織)の人間であることを感じるでしょう。また、住んでいる分譲マンションの空室が値引き販売されるとなると分譲マンションの一員であることを思い知らされることでしょ。

 このように全体社会のなかにいくつもの社会が存在し、人間はそれらに重層的に所属しているのです。そして、既に述べたように、社会にはそれぞれの文化があり、それぞれ特性を持っています。そうした社会には、構成員が固定されえているものから流動性の強いものまであります。そうした社会は、構成員の属性(年齢・性別・能力・財力等)により役割を期待します。さらに、その役割期待には、構成員の属性によって傾向性を生じるのです。こうした構成員に対する役割期待の傾向性も、その社会の文化なのです。とすれば、社会と文化は、当然に性差を許容していることになります。

 このように社会や文化は性差を内包しているのですから、仮に、ジェンダー・フリーが、社会的・文化的性差の否定というのであれば、それは社会・文化の否定となるのです。社会を否定したところで、人間を想定することはできません。したがって、もし、ジェンダー・フリーが、社会的・文化的性差の否定あれば、自己の存在を否定することになるのです。

 とすれば、ランドセルの色を巡る象徴的論議は、無意味であるといえるでしょう。しかし、ジェンダー・フリーの主張は、社会的・文化的性差の否定にあるのではないでしょう。ジェンダー・フリーは、社会的・文化的性差に基づく不利益取り扱いの解消にあると思われます。ジェンダー・フリーの発想は、憲法の言うところの両性の本質的平等であり、法の下の平等の現実社会での実現だと思われるのです。

 そうだとすれば、ジェンダー・フリーは、女性が中心と思われながら、実のところ男性も利益を受ける発想だと言うことになりそうです。

 学校でのジェンダー・フリー教育が、ランドセル論争のような表層の言葉遊びではなく、個人の尊重に根ざしたものであることを大いに期待したいと思います。



ジェンダー・フリーとランドセル

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