「普通教育」としての障害のある子どもの教育

社会学的視点から

 

 

 

 福 本 良 之            仁 井 康 彦

 (岡山大学大学院 医歯薬学総合研究科博士課程)    (兵庫県立神戸養護学校)

 

 

 

T.問題の所在

1.  はじめに

障害のある人たちに対する社会の対応は、決して良い方向へばかり進歩してきたとはいえない。ただ、現在の日本の社会は、そうしたなかで相対的に良い状態であるといえる。しかし、教育に限っても、すべての障害のある子どもの教育が、何等の留保なしに義務制に移行したのは、ほんの四半世紀前からである (福本 2006)

障害のある子どもたちに対する教育は、障害児教育あるいは特殊教育と称されてきた。このように称されてくると、障害のある子どもたちに対する教育が、障害のない子どもたちへの教育とは殊更異なった教育であると看做してしまうレーベリング効果を発生させる傾向を生じる (Becker 1963=[1978] 1993) 。確かに、養護学校で学ぶ児童生徒には、器質的な障害のため十分に能力が発揮できない状態や、社会の環境が十分に整えられていないために生じる活動のしにくさ等、何らかの不自由さがある。しかし、障害それ自体は、すべての児童生徒が持つ様々な属性の一つ (児童生徒の一部=属性の一つ) にすぎず、児童生徒それ自体をあらわすものではない。法的にも、障害のある子どもたちに対する教育は、障害児教育あるいは特殊教育である以前に普通教育であるという点を看過してはならない)

このような属性の問題と法的問題の存在は、理念としての普通教育としての障害のある子どもたちへの教育を認めることと、普通教育としての障害のある子どもたちへの教育を実践することは決して同値ではないことを示している。その障壁の一つが、障害のない人間=多数者としての教員の障害に対する認識である。

 

2.  普通教育の困難さ 多数者の認識を超えて

養護学校での教育を普通教育の一環と看做すとき、養護学校での教育も小中学校での教育も共に普通教育に包摂される。同じように、養護学校の児童生徒も小中学校の児童生徒も共に、普通教育の対象としての児童生徒に包摂されることになる。少なくとも、教員側には、こうした認識が必要である。以下のエピソードは、教員側の包摂の認識について示唆している。

 

 (エピソード1)

地域の高校生が集まって生き方や考え方を主張する「生き方を考える高校生フォーラム」が、年一回開催される。養護学校高等部も参加対象となる。昨年度 (2005) は、養護学校からの参加生徒が最優秀賞を受賞した。障害があるためにつらい思いをしてきたこと、それでもがんばってきたこと、夢に向かって毎日努力していること等についての発表であった。

 障害のある生活というのは養護学校の生徒にとっては、日常 (生活) である。その生活を表現することは、自分自身の置かれている状況を客観的に把握しなおすことにもなり、有意義である。さらに、その表現は、他者 (障害のある生活をしていない者) からの理解の契機となる。こうした表現を正当に評価することは、障害のある生徒にとっては、意欲を生じさせることにもなり、教育的に意味がある。

 

 (エピソード2)

障害のある友達が養護学校で学んでいることを知り、実際に足を運んでその様子を肌で感じるという取組の一環として、地域の小学校の児童会が「みんなで一生懸命集めました」とベルマークを持ってきてくれることがある。「障害とたたかいながらがんばっている私たちの友達に、何かできることはないだろうか」ということの具体化である。

 学校 (校種) は異なるが、同年齢の児童が、様々な状況の中で生活しているということを実際に知るということは、他者理解の契機であり、有効なコミュニケーションの端緒であり、教育的にも意味がある。

二つのエピソードは、障害のある児童生徒と、障害のない児童生徒との交流という教育活動としての観点からは、成果がある。この成果の前提には、「大変そうだけどよくがんばっている、応援するからがんばれ」等々の、他者に対する思いやりにあふれる好意的な心情が存在していると考えられる。相手を思いやるという点=他者理解では優れたものであり、このような心情を育むことも教育の課題として重要なことである。おそらく、障害のある人とのかかわりが、この時点からスタートしていくと考えられる。これら二つのエピソードは、理解し、関係性=コミュニケーションを構築する契機として教育的に評価できる。

しかし、毎年契機で留まるならば、契機はあっても進展はなく、関係性=コミュニケーションも深まらない。エピソード1のフォーラムで発言した障害のある生徒には、当然に言語能力がある。とすれば、障害のある生徒の生活は、障害を基底として表現するのは理解できるが、基底からの広がりについても表現できるのではないだろうか。障害を一つの属性と考えるならば、他の属性、他の生活領域についても多くを語ることができ得ると思われる。もし、障害を基底として、その基底部分しか表現できないとすれば、それはその生徒の生活をとりまく環境、広くは社会環境、狭くは関与者 (教員・保護者等) が、生徒の生活領域を狭めているのではないかという疑念を生じる。少なくともそうした疑念を持つことを教員には求められる。前述した包摂の認識があれば、障害という属性は、個人の一部であり、他の属性の存在にも目を向けるからである。したがって、障害という属性とそれに伴う生活領域しか見出せないとしたら、関与者たる教員は自らが障害という属性を持つ児童生徒に対し、包摂の認識を有しているか疑念が生じる。

二つのエピソードには、理解し、関係性=コミュニケーション (以下コミュニケーション) を構築する契機が存在している。しかし、これは、障害のない人の側からの思いやりである。思いやりは、相手に関する関心が存在するからこそ発露される。関心なきところにコミュニケーションは発生しないのだから、関心としての思いやりはコミュニケーション成立過程の一つの要素である。しかし、実際のコミュニケーションが成立するには、少なくとも、もう一つ要素が必要である。それは、相手を理解しようとする過程である。相手に対する思いやりと相手を理解しようとする過程は、ともに人間関係=コミュニケーションを構築していく上で不可欠な要素であるが同値ではない。相手に対する思いやりは、X氏がY氏をみて感じるということで完了するいわば自己完結的な状態である。ブルーマーは「人間は、個人としてであれ集団的にであれ、自分たちの世界を構成する対象の意味にのっとって行為しようとする」 (Blumer 1969=1991: 19) と述べているように、「大変そうだけどよくがんばっている、応援するからがんばれ」等々は、障害のない人たちにとっての「障害のある人=児童生徒」に対する意味理解でしかない。そこには、障害のある児童生徒自身がどのように障害を認識しているのかという所謂健常者側からの疑問が、欠落している。少なくとも、障害のある児童生徒=人間は、それほど画一化された薄い意味の対象ではない。ここでは、障害に対する、障害のない人の世界からの意味は提示されているが、障害のある児童生徒からの意味が提示されていない。ブルーマーが「自分たちの世界を構成する対象の意味」と述べているように、障害のある児童生徒も自分たちの世界 (生活領域) の固有の意味を持っていると考えるべきである。

 コミュニケーションの成立には、相手を理解しようとすることが必要であると述べたが、フェイドンとビーチャムは有効なコミュニケーション成立のための理解の困難さを指摘し「言語共同体は言語 (たとえば英語を話すこと) と文化 (たとえば、家族単位、社会階層、世代、民族性、職業グループなど) の両方に規定される。文化的な類似性に加え、以前にその人たちのあいだで交流があれば、容易によい理解が得られる。コミュニケートしようとする話題について共通の考えをもたない人のあいだ、または初対面の人のあいだでは、おたがいに理解しにくいのは自明だろう」 (Faden and Beauchamp 1986=1994: 257) と述べている。

 この理解の困難さが、 (障害がある) (大変そうだ) (それでもがんばっているようだ) (だから応援してあげたい) という図式を生じさせていると思われる。確かに、この図式は、一面、当を得ている。しかし、それは、障害のある人の特定の属性、特定の生活領域に関して妥当するに過ぎず、総体を語るには貧弱すぎる。フォーラムにおける養護学校高等部生徒の受賞や、ベルマーク贈呈が心地よい話題として新聞記事になるということは、ある一面、理解の契機として評価できるが、それで意味理解を完結させてしまう危険性も同時にはらんでいる。

ブルーマーやフェイドンとビーチャムを基にするならば、相互に理解しにくい状態は、障害のある人々とない人々の間に限定されることではない。むしろ、日常的に理解の困難さと齟齬は、新たな接触の中で生じていると考えられる。同一の文化、属性を共有している人同士というのは、社会的にみれば極めて縮減されたものである。むしろ、人間は、各々違った存在であるという理解が、より妥当性を持つ。憲法14「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」との平等則の前提には人間は各々異なった存在であるという認識が存在し、それゆえに異なった取扱いをされないとの平等則が規定されているのである。包摂とは、各々異なった存在 (障害もその一つ) として認識した上で、人間という上位概念に包摂しようとするものである。

包摂が可能となるのは、自らと他者の違い、属性の多様性を認識したうえで、相互に意味を理解していこうとするコミュニケーションと新たな関係性の構築においてである。普通教育は、すべての子どもを対象として行われる。すべての子どもとは、子どもという以外、なんらの条件も付さない包摂された子どもを意味している。したがって、普通教育の実践も属性の多様性を認識したうえで、相互に意味を理解していこうとするコミュニケーションと新たな関係性の構築において行われることになる。

したがって、希求されるのは、すべての子どもを包摂した教育=包摂教育) としての普通教育の実践レベルでの実現に向けた過程の具体化である。本稿においては、包摂教育としての普通教育の実践レベルでの実現過程の可能性を検討し、さらに普通教育と特別支援教育の関係性を明らかにすることを目的とする。

 

U.普通教育としての障害のある子どもたちへの教育実践の可能性

1.  校長Aの事例から見た養護学校での普通教育 包摂の実践

普通教育としての障害のある児童生徒への教育実践と対等性の相互関係=包摂の可能性の事例として、養護学校長Aを検討する) 校長Aの調査は、200411月より開始した医療と人間に関する質的調査の一環として、20056月に実施した。分析の理論的支柱は、シンボリック相互作用論 (ブルーマー) に依拠し、相互作用に着目して分析を行った。

具体的な事案としては、「高等部入学者選考」と「修学旅行」である。校長の行為は、学校経営としてとらえられることが多いが、本事例においては、教育活動ととらえた。なぜなら、第一には、校長Aの行為は学校長として直接には教職員に向けられることが多いが、最終的には教員を経由しつつ児童生徒に享受されるものであること。第二には、校長Aの行為は養護学校における普通教育の実際的促進と考えられたこと。以上2点から、校長Aの行為は、間接的であったとしても教育活動と考えられるからである。

 

2.  個別のニーズと普通教育

すでに述べてきたように養護学校の教育も普通教育の中に位置している。確かに、障害が重度になればなるほど、養護学校の児童生徒の学習内容は、通常校の国語、算数、理科、社会といった教科学習とは差異を生じてくる。しかし、このことは障害のある児童生徒の教育の特殊性を根拠付けるものではない。すべての児童生徒には、それぞれ個別の状況に応じた教育が必要であるという一般的な事実に含まれるに過ぎない。これは、インクルージョンの基本的な認識でもある (Mittler 2000=2006: 19-20) 。ただ、障害のある児童生徒は、その個別のニーズが一般的に顕在化しているに過ぎず、個別のニーズに対応した教育の部分も含めて総体としての普通教育を形成している。そして、各教科、道徳、特別活動、自立活動及び総合的な学習の時間からなっている養護学校の教育内容を総体的に眺めるならば、個別的なニーズではなく、児童生徒一般として執り行うべき分野も多い。

 

3.  高等部入学者選考における校長Aの実践 普通教育として

 (1) 実践

養護学校高等部は義務教育ではないので、入学者選考が実施される。しかしながら、一部の養護学校を除いては、特別な事情のない限り入学希望者全員が合格できる。つまり、必要書類がそろっていれば合格でき、校務としての高等部入学者選考は、非常に簡単であるともいえる。こうした状況の中で、形式主義ともとえられる可能性のある「高等部入学者選考」を実施したのが本事例である。

本事例の「高等部入学者選考」は、B県の盲学校等高等部入学者選考要綱 (以下要綱) にのっとって実施された。基本的には、B県の公立の養護学校高等部は、本要綱に従い選考過程を実施するとされているが、校長Aが「手続き (要綱) に則ってしなさいとなっています。 () これまでが、ともすれば、厳しい言い方をしたら、いい加減なやり方で終わっているわけです」と述べているように、要綱にしたがって実施されていなかった部分もあったと思われる。

こうした中、厳格に入学者選考を実施した理由を校長Aは「一人ひとりの子どもを大事にしたい、もうそれに尽きる」と語っている。その「一人ひとりの子どもを大事にしたい」の具体化が通過儀礼としての入学者選考である。そのことを校長Aは、

 

合格をしたということを通して、次また入学する時の意欲に切り替えたい。そういうことを通して、新たな高等部で新たな自分を見つけて欲しい。それは一緒に (合格発表を見に) 来てくれた先生であったり、一緒に来てくれた保護者であったり。それで合格を確かめてもらって、4月からの思いが変わってもらえたら、それがイニシエーションという通過儀礼です。それを大事にする必要がある、そういう考えです。

 

と語っている。義務教育終了後の進路選択と進路決定を人生の通過儀礼ととらえ、人間として成長するために必要であるものと校長Aは考えている。養護学校中学部の生徒は、実質的に高等部への進学が約束されているため、義務教育期間の終了に伴う達成感、その後の進路についての緊張感や期待感を味わうことが少ないと思われる。そのような生徒たちにも同じような経験 (通過儀礼) をさせたいとの考えのもとに、この取組が展開された。

校長Aは、通過儀礼としての入学者選考の実現のため、以下の準備過程を行った。

@入学者選考委員会は、関係者以外立入禁止とする。廊下側のカーテンはすべて閉切り、必要に応じて施錠する。

A検討を重ねて作成された学力検査問題等は、関係者以外には絶対に目に触れることのないよう慎重に印刷された後、施錠された校長室において、用意された検査室ごとの封筒にいれ厳封をし割印を押す。さらに、検査室ごとの封筒を保存袋にて入れ、封をして割印。最後に校長室内金庫に入れ、金庫を封印する。

B検査開始時刻、終了時刻の徹底。前日に各教室、廊下、ホールの時計の整合を実施。当日はさらに正確さを期すために電波時計を併用し、計時の徹底をはかる。

C合格者発表のための準備も、施錠し、カーテンを閉めた校長室内で行う。移動式白板に、周囲の目に触れないよう慎重に印刷された発表用紙をはりつける。万が一、人目に触れても一瞬で判別できないよう上下逆さまにし、その面を壁に向けて密着し、その上から大きな白布で全体を覆う。選考結果を外部にもらさないための処置。

 

 (2)  考察

 校長Aは、高等部入学者選考における目的を

 

この入試という大変さの中でね、やっぱり先生方にも、先生方の思いの中で、こうして子どもを尊重して大事にしていかんとならんのだということを改めて思って欲しいということと、子どもたちが本当に自分の新たな人生に、今度はまた振り出しをするんだという、それは保護者にも、そしてまた一緒に来てくれた先生に思って欲しい

 

と述べている。教員・保護者には「子どもを尊重」するということの再認識、生徒には達成感と新たな社会 (高等部) での意欲の喚起、これらを目的としている。そのために、厳格な入学選考を実施した。実際、それまでの選考においては、学力検査会場に介助と称して受検生の所属する中学校の教員が入室することがあった。さらに、合格発表は、養護学校の校長が、受検生の中学校の管理職に伝えるという方法で行われていた。このような方式は、受検生、教員、保護者にとっても負担がなく、優しい対応であるとも理解できる。しかし、その優しい対応の中では、校長Aの目指した目的の達成はありえない。校長Aの価値の中では、受検が生徒の選考という意味を超え、より教育的意味を持つものとして把握されている。

 一連の校長Aの高等部入学者選考における行為は、受検生、教員、保護者に作用している。入学者選考委員会委員として参加した教員Cは、「@入学者選考委員会室への関係者以外立入禁止、施錠、カーテン閉鎖」では、厳格さに疑問を持ったと語っている。しかし、選考委員会を重ねるうちに、自らも厳格に対応しだし、「B検査開始時刻等計時の徹底」では、教員C自ら電波時計を準備している。しかし、この段階では、教員Cは、校長Aの指示した厳格な入学者選考の意味を十分には理解していなかった。むしろBに至るまでの過程においては、校長Aが何をそこまでこだわっているのかを確かめたいという好奇心が先行していた。教員Cが、校長Aの指示による入学者選考の意味を理解するのは、合格発表の場である。合格発表の様子を校長Aは「生徒 (受検生) とそれから担任の先生、その中学校での、それこそ抱き合って涙してる」と述べている。その光景を見た教員Cは「僕なんかもちょっとジーンとくるものがあったですね。あっ、こういうことやなというのがありました。このためにやってきた」と語っている。

毎年、繰り返してきた入学者選考を校長Aは、厳格かつ形式的に執り行うことを指示した。この校長の行為は、教員Cに作用し、教員Cは校長の行おうとしている入学者選考の意味を理解しようとした。その結果、合格発表の時点で、教員Cは校長Aのいう入学者選考の意味を理解した。

 教員Cによると、厳格な入学者選考は、当該養護学校の内部進学者と中学部3年の学年集団をも緊張させた。入学者選考に際し、面接練習も緊張感を持って行われていた。これらは、明らかに負担であるが、同年齢の普通校の生徒が当然体験する通過儀礼である。そうであるとすれば、緊張感を受領することが可能な障害のある生徒においても通過儀礼として教育的効果は存在し、普通教育の過程で体験するもの、つまりは普通教育の一環であると理解できる。

 このような緊張感を与える厳格な入学者選考と合格発表 (それまでは受検生の学校に個別に通知) により「生徒 (受検生) とそれから担任の先生、その中学校での、それこそ抱き合って涙してる」という合格発表の光景が生じた。ここに校長Aの意図した通過儀礼は完了し、喜びをとおして達成感と新たな社会 (高等部) での意欲の喚起という目的が達成された。

 本事例の入学者選考は、校長Aの行為が最終的には生徒・教員に理解され作用したと理解されるが、決して校長Aによる一方的作用ではない。校長Aが、厳格な入学者選考を企図したのは、生徒・教員からの作用が前提として存在していたからである。それは、生徒に負担をかけない優しい入学者選考 (学力検査会場に介助として受検生の所属する中学校の教員が入室することを認める・選考結果を個別に生徒の所属する学校に通知) による生徒・教員の反応に依拠している。その限りで、校長Aと生徒・教員の間には相互作用が生じている。

 それまでの生徒に負担をかけない優しい入学者選考における生徒と教員の関係性は、こと入学者選考に関しては比較的希薄であったのではないかと思われる。校長Aの指示による厳格な入学者選考では、緊張感をともないながらも合格発表という瞬間において生徒と教員の関係性は同士的結合 (達成感を共有する) にまで緊密化されたと考えられる。このような通過儀礼としての入学者選考の経験と達成感は、普通校においては散見されることである。校長Aの厳格な入学者選考は、普通教育の一環として行われたものであり、養護学校での普通教育の幅は、教員の認識に左右されることを示す一例である。

 

4.  校長Aの修学旅行引率 特別支援教育として

 (1) 実践

修学旅行は、学習指導要領によると「平素と異なる生活環境にあって、見聞を広め、自然や文化などについて親しむとともに、集団生活の在り方や公衆道徳などについての望ましい体験を積むことができるような活動を行うこと」 (文部科学省 2004) とされている。学校や家庭とは違う環境の中で、有意義な体験を積むことができる活動を組織することが、修学旅行において教員集団に課せられた課題である。

修学旅行の目的は、小中高等学校も養護学校も基本的には変わらない。しかし、障害があるために対応を考えておくべきことは多い。急な発熱や体調不良、怪我や迷子、周囲とのトラブル等、実施においては、障害のある児童生徒の状況によって十分な配慮が不可避となる。

生徒には個々に異なる障害があり (男子1名、女子4) 、引率する教員集団4) の経験も比較的浅かったが、ディズニーランドにおいて短時間の夜間自由行動を設定した。校長Aは、このような状況を踏まえ、各教員が安心して行動できる方策を考えた。この場合の安心とは、緊急事態発生時において、校長以下が協力して対応してくれるという集団的対応に対する安心感である。

緊急時の集団的対応に対する安心の具現化を、校長Aは「何か異様な赤い帽子と黄色のジャンバー着て、 (校長は) あの辺りだと。それだけで安心してくれると思ってました。」と語っている。実際には光源も頭につけ、遠くからでも識別可能な服装で一定範囲内を巡回した。

 

 

  (2) 考察

校長Aの服装と行為は、障害のある生徒と一対一になる自由時間において、各教員の緊急時の対応に対する不安感の軽減を目的としている。このことを校長Aは「何かあった時には校長Aはそこにいるということだけ伝わったらそれで良い」と語っている。

自由行動時、個別に生徒と行動する教員は、随所で校長Aの姿を確認できる。緊急事態の対応を常に意識しながらも、集団的対応への安心感から、目の前の生徒に集中できる。教員が適度に慎重ではあるが萎縮しない結果、生徒に過干渉となることなく、自主性や意思を尊重する行動を保障することにつながった。その結果、家庭や学校とは違う環境の中で、日常的ではない体験をし、自らの意思で移動し、要求する等の行為を行い、修学旅行の目的を達成することができた。

修学旅行の目的は、普通校と基本的に変わらないとしても、実践においては生徒の属性としての障害に留意することが強く求められる。それは、障害のない生徒も同じであるが、安全性の確保に由来する。身体的変調、移動等において、生徒の属性としての障害が、より強く安全性確保への対応を求めるのである。この点で、校長Aの学校において修学旅行は、入学者選考に比較し、より特別支援教育の側面が大きくなっている。

 緊急時の集団的対応に対する安心の具現化を、校長Aは「何か異様な赤い帽子と黄色のジャンバー着て (光源も頭につけ) 」巡回することで行ったのであるが、安心の具現化はこのような方法以外にも存在したと思われる。このような方法で安心の具現化を行った理由は、「ただ、行ってるだけではおもしろくない」「自分も楽しみながらやれる方法を考える」と校長Aが語っている点にある。校長Aによると、このような派手な格好で巡回している際に、多くの人が視線を寄せ、何人かが近寄って眺めたという。ある意味、校長Aは、ディズニーランドの来園者にとっては奇異な存在であり、ユーモラスな存在と化していたと考えられる。障害のある生徒は、来園者の中で少数者である。また、ある意味で奇異な存在と受け止められていたかもしれない。奇異な存在と受け止められるという点で生徒たちと同化し、そのことによって生徒たちとともに修学旅行に参加していたとも考えうる。仮にそうだとすれば、自らを道化と化し、障害という属性にとらわれがちな健常者との間にソクラテス流のアイロニーを構築したことになる。

 

5.  つの事例

「高等部入学者選考」は、普通教育としての取組であると言える。養護学校での入学者選考は、基本的に全員合格だからという経験的事実に拘泥することなく、県内の公立盲学校等高等部が準拠している要綱にしたがった通常の入学者選考の実施例である。検査問題の内容、面接の内容や方法等、障害があるために配慮すべきことは多い。しかし、それらを理由として、校長Aの意図した教育効果を否定することはできない。通常中学3年生が経験する受検という緊張感や達成感を自然な形で味わわせる。そのための受け手 (入学校) 側の取組である。

「修学旅行」の事例では、直接児童生徒にかかわる取組でもあるので、当然、個々の状況 (障害) に対応した配慮や支援が必要となる。これは、障害があるために必要となる配慮や支援、指導ということができる。この点を無視しての取組は、養護学校では考えられない。しかし、この点だけを重視した取組では、普通教育として考えることは難しい。むしろ、障害のある児童生徒に対し、普通教育の内容としての修学旅行を実施するために、必要な配慮や支援が何であるのかを考え取り組んでいくことが必要であり、そのような視点で実施されたのが本事例である。

これら二つの事例は、河添のいう「初等普通教育、中等普通教育を施すことは必要条件であって、その上に合わせて障害の軽減、あるいは克服の課題も保障すること」 (河添 1984) つまり、障害に起因する学習が、必要条件としての普通教育を保障した実践であると考える。

 

V. まとめ

 二つのエピソードは、日常生活で散見するものである。エピソード1において、障害という属性を持った生徒が、その属性から生じる負の要素に挫けず自らの生活を構築しようとする過程を表現した時、多くの聴衆の感性はその姿に共感を示し、励まされたと感じる聴衆も存在するであろう。このような聴衆の反応は、すこぶる健康な反応といえる。しかし、こうした健全な風景は、眺める位置が変わると厳しい風景に転化する場合もある。ある障害を持った幼児の母親は、好意的な「いつも明るく頑張っているね」という積極的な評価の言葉に、ときどき負担を感じると語っている。障害の有無にかかわらず、育児は親に負担を強いる局面がある。育児における親の負担は、経験則上、障害のある子どもの親により多く生じる。周囲が障害を持った幼児の母親に明るく頑張っている姿を期待していると感じた場合、暗くうなだれた姿はみせられないと障害を持った子どもの母や親は思ってしまい、周囲の期待が大きな負担となりうるのである。善意と好意に満ち溢れた言動も、悪意なく阻害要因となる場合が存在している。人間は、所属や属性により、言葉や行為の意味が異なるのである。

 このような人間と人間社会の特性に留意するならば、人間はそれぞれ異なった存在であると認識することは容易である。しかし、教育実践、特に、障害という可視化された属性を持つ生徒児童の教育においては、可視化された属性に引きずられる危険性がある。この危険性に対処するためには、教員は優れた人間相互の関係性の観察者であることを求められると共に、異なった属性間のコミュニケーション能力を有している必要がある。この観察者としての能力とコミュニケーション能力は、教員の専門性を構成していると考えられる。換言するならば、観察者としての能力とコミュニケーション能力は、児童生徒に社会化を促進し、適切な人間関係を構築していく力を生じさせる際に不可欠な教員の専門性といえる。

 障害のある児童生徒を教育する教員には、障害に対する専門性も求められる。しかし、そこで求められる専門性は、同じく障害を専門領域とする医師、看護師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚療法士、介護福祉士等とは明らかに異なっている。それは、教員には、障害のある児童生徒に社会化を促進し、適切な人間関係を構築していく力を生じさせるという目的のために障害に関する専門性を求められているという点である。この目的と手段の関係を認識することは、障害を専門とする領域 (医療、福祉、教育) における教育独自性を自覚することになる。

校長Aの事例は、こうした専門性を基としてなされた実践である。さらに、障害という属性を持った児童生徒の教育においては、すべての子どもを包摂した普通教育の視点と、属性に対応した特別支援教育の視点の融合が求められる。校長Aの事例は、普通教育の視点と特別支援教育の視点の融合に基づく実践であり、包摂教育としての普通教育の実践レベルでの実現過程の可能性を、通常の教育実践の中に示している。校長Aの入学者選考と修学旅行引率の事例は、それぞれ普通教育の実践例、特別支援教育の実践例と二分されるものではない。入学者選考と修学旅行引率のどちらも、普通教育の視点と特別支援教育の視点が融合され、ただ、比重に差が生じているに過ぎない。人間は様々な属性を持ち、異なった存在であるという点に帰着するならば、特別な支援はすべての児童生徒に必要なものであるといえるのであり、特別な支援は普通教育に包摂されるのである。ただ、障害のある児童生徒は、障害という属性に基づく支援が緊要であることが多く可視化しているので、特別支援教育として提示されているのである。したがって、障害のある児童生徒に対する教育における普通教育と特別支援教育の関係性は、普通教育の内実を高め具体化するために特別支援教育が存在するという上位規範と下位規範の関係にあると解する。

 

補論 ―普通教育―

日本国憲法第262項は「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」と規定している。いうまでもなく、憲法は障害のある子どもを「子女」から除外するものではない。

さらに学校教育法第71条には「盲学校、聾学校又は養護学校は、それぞれ盲者 (強度の弱視者を含む。以下同じ。) 、聾者 (強度の難聴者を含む。以下同じ。) 又は知的障害者、肢体不自由者若しくは病弱者 (身体虚弱者を含む。以下同じ。) に対して、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施し、あわせてその欠陥を補うために、必要な知識技能を授けることを目的とする。」と記されている。 (同条の「準ずる」とは、同等の扱いをするという意味である。) つまり、障害のある児童生徒が、盲学校、聾学校又は養護学校 (以下養護学校) において受ける教育は、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校で行われる教育を基準としたうえで、より自由に力を発揮し、快適な生活を送ることができるようになるために、一人一人の障害の軽減や克服をも目指すものである。そして、養護学校で行われる教育も憲法のいうところの普通教育である。

河添も「『特殊教育』も『普通教育』の一環であり、『普通教育』としての『特殊教育』でなければならない」としている。しかし、同時に「『特殊教育』の概念に『特殊な教育』としての認識と強調があり過ぎる」と指摘し「初等普通教育、中等普通教育を施すことは必要条件であって、その上に合わせて障害の軽減、あるいは克服の課題も保障すること」 (ibid) と述べている。

このように憲法で記された「普通教育」とは、すべての児童生徒を包摂した教育である。したがって、養護学校における障害の状況やそれによる不自由さに対する指導や支援は、「普通教育」に付加されて一体化されたものということができる。

障害の重い児童生徒の教育について、その障害の軽減や克服を目指す自立活動が主として考えられたり、軽度発達障害と言われる子どもたちの教育についても、周囲との違いへの対応のみ考えられたりすることは、それらの子どもに対する教育の一部についてのみ考えられていることになり、それだけでは不十分であるということになる。それらを含めての「普通教育」として、その目的・目標達成への努力が、より重視して取り組まれるべきものである。

現在進められようとしている「特別支援教育」においては、一人一人の必要に応じて必要な指導・支援を行うということが強調されている。そのため、特別に障害の部分に対応するという部分に傾斜しがちであるが、基本的には「特別支援教育」も「普通教育」の一環であるという認識が必要である。

 

【注】

1) 補論参照

2) インクルージョンと包摂

本稿で使用する普通教育の意味は、インクルージョンにほぼ重なる。しかし、インクルージョンの意味は、現状では必ずしも一義的ではない (福本2006) 。したがって、本稿においては基本的に包摂と表記する。

3) 医療と人間に関する質的調査

調査期間:200411月より現在 

調査参加者数:41名 

調査参加者の属性:医師、看護師、患者、患者家族、養護学校教員、弁護士、医療訴訟原告、研究者 (医学・哲学)

調査方法:広く生活に何らかの影響を及ぼした医療に関し、調査参加者が自由に語るという方式で行った。1回の調査時間は、原則2時間以内とし、2時間を超える場合は、新たに調査の機会を設定した。

なお、本稿においては、参与観察によって得た事例も使用している。質的調査および参与観察において得られた資料は、参加者および協力者に使用目的、使用方法を明らかにしたうえで、各々承諾を得ている。

4) 表 教員集団の属性

 

性別

教職経験年数

養護学校経験年数

備考

教員 1

女性

13

中学校12

教員 2

男性

小学校4

教員 3

女性

 

教員 4

女性

 

教員 5

女性

小学校4 養護教諭

 

【文献】

Becker, Howard S., 1963, Outsiders: Studies in the Sociology of Deviance, New York: The Free Press. (=[1978] 1993, 村上直之訳『アウトサイダーズ』新泉社.)

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(http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122602/013.htm, 2006.11.05).