「育療」第41号 日本育療学会

 

 

 

表題 インフォームド・コンセントにおける支援の側面

「病児」の親と患者から見たインフォームド・コンセント

 

著者氏名 1福本良之 2金一東 3野地有子

 

所属   1岡山大学大学院医歯薬総合研究科博士課程

     2日本クリニック・サンディエゴ

     3新潟県立看護大学

 

 

 

 

 

キーワード

事後的インフォームド・コンセント 患者側支援 信頼 任せる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本文

T はじめに

インフォームド・コンセント(以下『IC』)は、少なくとも日本医師会生命倫理懇談会「説明と同意についての報告」1) 以降、今日の医療制度において必要不可欠の要素となっている。実際、医療訴訟では、インフォームド・コンセントを欠けば説明義務違反として、医療者側は法的責任を問われる可能性がある。そのため、訴訟上の義務違反を回避するために、書面による患者側の同意を記録に残すことも一般化している。

しかし、ICは、医師が患者に治療の説明をし、患者の同意を取り、承諾書に署名を得るという単純なプロセスだけを意味するものではない23。ビーチャムとチルドレスが「患者のこの自律的選択権は、IC規則の基本的な機能であり、また、正当化の根拠である。」4)と述べているように患者の自律的選択権の尊重、さらに患者側と医療者側との有効なコミュニケーション過程2,5,6)が、ICの中核をなしている。

しかし、患者が思春期にも満たない小児や意思表明・コミュニケーションに問題のある障害児(以下「病児」)の場合、本人に自律的選択および有効なコミュニケーションを期待することは困難である。従がって、「病児」に代わり親との間でICを構築することになる。「病児」の親と医療者間でのIC過程での成否は、直接に「病児」に利益不利益として反映しているのが現実である。

 

U 目的

本稿においては、一方の当事者である患者側(本人および親)の視点からICを検討し、患者側および医療者側双方にとって有益なICの可能性を提示することで、最終的に「病児」の最大利益に資することを目的とする。

 

V 研究方法

患者側と医療者側との関係性に関して行ったインタビュー調査(患者、患者家族、医療訴訟原告、弁護士、医師、国会議員)を基に作成した逐語録を基礎資料とした。調査参加者は、調査上の偏りおよび紹介者からの影響を少なくするため、特定の医療機関や特定の団体からの選出を避け、まったく社会的背景や地位、居住地の異なる複数者の紹介によった。調査参加者は、調査時点で全員成人であった。調査参加者数33名。そのうち「病児」の親は9名。居住地は、12都道府県および在留邦人1名・外国人1名であった。

インタビューは、協力者の指定する場所で行い、あらかじめ質問事項を設定せず調査参加者が自由に語るという方法で行った。分析枠は、シンボリック相互作用論を用いた,8)

なお、調査の参加者には、調査目的、調査結果の使用等を明示し、調査の中止を含め参加者の自由意思に基づいて調査を実施した。各協力者からは、書面での承諾書を得た。

 患者側の逐語録から、医師に対し強い不信を抱く者(不信群)と信頼を抱く者(信頼群)を選出した。前者は医療訴訟の原告となった「病児」の親である。後者は成人の元患者である。これら2群の逐語録および関係資料(医師・弁護士・他の親の逐語録、訴状、判決文、準備書面、鑑定書)から、ICに関する事項を抽出した。医師に対し強い不信を抱く者(不信群)と信頼を抱く者(信頼群)がどのように形成されていったに留意しながら、抽出した事項を検討した。

今回の調査では、たまたま不信群が「病児」の親で、信頼群が成人の元患者という形になり、調査対象の偏りの可能性があるが、本研究は、単純に2群を比較する疫学的研究ではなく、「不信」「信頼」に焦点を当てた質的調査であること、今回のようなテーマでは「病児」そのものを質的調査の対象にできないこと、更に、医療訴訟に関係する関係者の聞き取り調査そのものが非常に困難であることも指摘しておきたい。

 

W 結果と考察

1.「任せる」と信頼

(1)「任せる」の二段階の意味

患者の自律的選択といっても、医学知識の乏しい患者が、自分だけの判断だけで自律的に選択できるわけでもない。医師からの適切な情報提供と理解への支援が、患者の自律的選択にとって不可欠である。さらに、患者には一般的に「任せる」という表現で、医師の診療に「同意」する傾向がある9,10

48歳の時、完全房室ブロックと診断されペースメーカーをいれた患者Aも、治療を「(医師に)任せざるをえない」と述べている。しかし、患者A同時に「この病院で良いのか、今の担当のドクターに任せて良いのかという不安も少しはありました」と不安も述べている。「任せざるをえない」と言いながら、「今の担当のドクターに任せて良いのか」とも述べている患者Aの言動は、矛盾しているようにも思われる。

しかし、この患者Aの言動は、矛盾していない。つまり、「任せざるをえない」は疾病等を治療する専門職としての医師一般に向けられているのであり、「今の担当のドクターに任せて良いのか」は、実際に治療をしてくれる医師に向けられているのである。このように、「任せる」には、治療は専門職としての医師(抽象的)に「任せる」という第一段階の意味と、どの医師(具体的)に治療を「任せるか」という第二段階の意味がある。通常、「任せる」ということが医療の場で問題となるのは、第二段階の意味に関してである(以下、第二段階の意味で「任せる」を用いる)。

(2)「任せる」の前提としての信頼

患者側が、「任せる」という言葉を使用するとき、対になって使用される言葉がある。それは、「信頼」である。

子どもを亡くした医療訴訟の原告Xは、子どもの入院に際し、「『信頼してお任せします』ということで、息子を預けた」と語っている。また、同じく子どもを亡くした医療訴訟の原告Yも「絶対の信頼を置いてお任せした」と語っている。このように、患者側は、医師に対する信頼を基に、「任せる」という言葉を発している。

では、信頼は、何を対象として判断されているのであろうか。患者Aは、担当の医師Bを信頼した理由として、「いつでも何でも聞いて下さいね」との医師Bの言葉と「しっかり私の目を見てしゃべってくれるということ」を挙げている。

 交通事故で腰を損傷した患者Cは、入院した日の夜、病室を訪れた医師から

お前、治りたいか?治りたいんだったら、今から背中の下に、山を作って、腹を上げるようにする。だけど、無茶苦茶痛い。で、それを一晩やれば、凄く違うんだけど、我慢する?

と尋ねられた。患者Cは、

人間と人間の繋がりって言えばおかしいけど、近い感じの繋がり。信頼する部活の先生に良き、アドバイスを頂いたような関係で言われた。だから、血の通ったような言い方っていうんですかね。押し付けでもなく、相手を一応、尊重しながら、相手を何か信頼する、そういう言い方のように感じました。もう感覚です。

と感じ、医師の勧める処置に同意した。患者Cは、この短いかかわりの中で、医師を信頼し任せたと語っている。

 信頼は患者Cのいうように感覚的=主観的に判断されることが多い。主観的に判断されるがゆえに、患者側は、医師の言語だけではなく、言語を表出する際の身体動静も含めて信頼できうるかを判断している。それは、患者Aにおいては「私の目を見てしゃべってくれる」に表れ、患者Cにおいては、医師の語気からも信頼感を強化されたことに表れている。つまり、患者は、説明(情報の提示および相談を含む)におけるコミュニケーション過程で、医師の言葉と身体動静から信頼を主観的に判断し、その信頼に基づいて「任せる」と発している。「任せる」は、客観性よりも主観性をより強く帯びたものであるといえる。

 信頼と「任せる」が主観に依拠する傾向が強いのは、当然である。患者は、通常、医学知識が極めて少なく、重篤な状態に至れば至るほど医師の説明の科学的合理性を判断する能力に欠けていく。そうしたとき、患者側が行う判断は、医師がいかに真摯に治療に当たろうとしているかという医師の姿勢に向けられる。子どもを腫瘍で亡くした母親Dも「やっぱりその先生のその時の態度でわかりますよね。」と語っている。

このように、信頼は「任せる」という意思決定の主観的根拠となっている。

(3)「任せる」という意思決定と「任せる」の範囲

 フェイドンとビーチャムは、権利放棄に関し11

つまり医師のICを得る責務を免除することになる。患者は意思決定の権限を医師に委任するか、知らせないでほしいと頼み、これによって医師は開示義務から解放される。患者は情報による意思決定を、もうしないというかたちで、ひとつの意思決定をしたことになるのかもしれない。

と述べ、「患者の権利放棄は、多くの患者が実際に医師に接するさいに、よくとる態度かもしれない。」と指摘している。前述のように「任せる」という態度も、医療現場ではよく見られるが、「任せる」は、ここで言う権利放棄と同義であろうか。

 「任せる」と権利放棄は、同じ意味ではない。「任せる」は、多くの場合、自己の身体生命の状態とそれに対する治療法と予期される結果の範囲を含んだ情報の提示を受け、素人領域的な理解と判断に基づき、この医師に治療を依頼しようと決定し、その決定を「任せる」という言葉で医師に表明しているのである。したがって、「任せる」という患者の言葉は、具体的な治療を貴方(医師)に依頼しますというのが、通常の意味であり、患者の「任せる」は「同意」であり、ICに基づいた行為=授権と理解できる。

法的には、患者(ないし患者を代理する権限を持つ者)が言う「任せる」は、通常、医療契約の事実上の締結であると考えられる。その結果、患者側と医療者側に相互に債権債務が生じるのである。患者の言う「任せる」という意思表示は、医療契約の委任的性格を明確に表している。

このように理解するならば、患者側が言う「任せる」という言葉(意思表示)は、患者と医療者に、法的な関係を含めた新たな関係性を生じさせる自律的選択と理解できる。そして、「任せる」は、法的にも患者側の認識からも、医師の説明によって提示された治療内容と方法、及び予期される結果の範囲に存在している。

このように、「任せる」は権利放棄の意味ではなく、説明に基づく一定の範囲内での委任を意味している。

しかし、患者の病状は、当然、一定不変ではない。良い方向に向かうならば、問題は生じないが、当初の説明時に予期した範囲を超過し、病状が悪い方向に変化した時は、問題が生じる。この病状の変化に伴い、当初の説明時に予定していた治療内容と方法から超過する場合は、少なくとも追加的な説明と超過部分に対する新たな意思表示としての「任せる」を得なくてはならない。したがって、医師のICを得る責務は免除されていないので、「任せる」は権利放棄ではないことになる。

 そして、この病状の変化とそれに伴う治療が、重大な結果をもたらした場合、特に、重大な結果の発生を当初の説明で示していない場合、患者側は納得いく因果関係の説明を求める。この治療終了後の説明が、大きな意味を持つ。したがって、ICは一度なされると以後不要になるものでも、最初の同意が永劫不変となる硬直したものでもない。

IC は、治療の開始から終了後まで、必要に応じ、繰り返される一連の過程と捉える必要がある。

 

2.予期しない結果の発生と事後的インフォームド・コンセント

(1)「任せる」の範囲の超過と医療訴訟の萌芽

 原告Xの子どもは、悪性リンパ腫寛解後の維持療法のために入院中、呼吸不全により亡くなった(死亡診断書)。訴状には

平成11109日ころ、○○の両耳下部に腫脹が出現し、被告病院X耳鼻科にて診察を受け、同月29日リンパ節摘出術を受けて検査した結果、悪性リンパ腫と診断された。

     その後同年1111日より同病院にて入院して化学療法を受けた結果、悪性リンパ腫は寛解したと言われ、平成1266日に一旦退院したが、同年719日から維持療法(化学療法)として同年85日まで同病院に入院した。

     その後同年911日から再び維持療法(化学療法)として12週間程度の予定で同病院に入院したが、同月18日から発熱(37度以上)があり、右化学療法の合併症として間質性肺炎に罹り、同年1020日午後310分、同病院にて死亡した。

と記されている。

 原告Xは、

9月の23日に運動会があったので、先生(主治医)に「それに間に合いますか」と聞くと「それには、間に合います」ということでした。

と語っているように、入院前の説明から、このような重大な結果が発生するとは予期していなかった。

 前回の入院では、個室に入って、その翌日から抗ガン剤を受けていたにもかかわらず、問題の入院では小児病棟の大部屋に入れられていた。このことに原告Xは危惧感を持っていたが、それが現実となった。

1週間ほどの入院で、「強い治療はしない」て聞いてたんです。でも、すごい骨髄抑制が、きたんですよね、抗ガン剤で。それも白血球は、2週間近く全然ゼロのままで上がってこなくて、その間にありとあらゆる感染症になったんです

そして、原告X

「最初から、個室にちゃんと隔離して治療してくれていたら、感染症になっていなかったのではないか」という頭がずっとありましたので、そのことばかり先生に問い詰めていたんです。

と語っているように、疑問を持った。危惧(感染症)が現実となり、子どもの死という重大な結果を生じたとき、なぜ大部屋に入れたのかという疑問は、医師の不適切な処置が原因で子どもが死んだのではないかという不信へと転化したことは十分予想できる。少なくとも、こうした状況下では、医師は大部屋での入院と「間質性肺炎」との因果関係を説明する(納得させる)必要があった。しかし、医師は原告Xを納得させる説明をすることができなかった。原告Xは、なぜ子どもが亡くなったのか、その理由を知るために訴訟を提起した。

 原告Yは、手術に際しての麻酔事故による、呼吸不全、肺うっ血により子どもを亡くした(死亡診断書)。原告Yの子どもの死に至る経過は、訴状によると

原告Yの子どもは、平成129月から、訴外病院において、急性リンパ球性白血病の治療を受けて、同134月には、骨髄移植手術を受けた。その後、移植後のGVHD(移植片対宿主病)に悩まされることになった。平成144月頃から、慢性心膜炎を発症した。その後1年が経過したが、症状の改善が見られなかったため、訴外病院主治医から被告病院Yの紹介を受けた。

1542日、被告病院Yのこども外来を受診し、小児心臓血管外科の医師Eから、心外膜開窓術を勧められた。

同月9日、原告Yは、執刀医の一人である医師Fから、検査の結果、手術は翌10日に行われることを告げられ、その手術の内容について改めて次のような説明を受けた。

    肺などはGVHDによって傷んでいるが、手術に耐えられないものではない。手術は技術的には難しい手術ではない。むしろ感染症が心配であり、その面ではリスクがあるというものであった。

    麻酔については「麻酔については挿管もアレルギーも問題ないでしょう」と説明し、それ以外の説明はなかった。なお、麻酔医からの説明の機会はなかった。

同月10日午前930分過ぎに医師Fから、麻酔の時の気道確保がうまくいかない、気管を切開して気道確保することを了解してほしいと言う説明を受けた。

    医師らは、原告Yの子どもの気管を切開したが、気道確保ができず、その後原告Yの子どもはICUに移され、心臓マッサージや換気を受けたが、午前1140分死亡した。

となっている。

 原告Yの場合も原告X同様、重大な結果を予期していたとは考えられない。手術の危険度を「ゼロに近い」と説明を受け「肺などはGVHDによって傷んでいるが、手術に耐えられないものではない」と説明を受けていた。さらに、「麻酔については挿管もアレルギーも問題ないでしょう」と説明されていたので、麻酔時の挿管、気道確保の不都合により重大な結果が生じたことは、説明から予期される結果の範囲を超過していた。

 原告Yの場合は、医療者の直後の説明が事態をさらに悪化させた。子どもが亡くなった直後、麻酔科の教授が病理解剖を願い出た。原告Yが断ると、小児外科の二人の医師が原告Yに話しかけてきた。そのときのことを原告Yは、

「まあまあ、その話は、私たちの方から」と出てきたのが外科のE先生でした。麻酔科医を退室させて、E先生とF先生の二人が残りました。麻酔科医がドアをバタンと閉めるまでを見てから、寄って来て、「いや、もう納得いかないです」と言われました、E先生がね。そこで、この先生たちも、そう思ってるのだとその時は思いました。向こうがすぐに言われたのが、「ミスを追及するには、証拠が必要です」と。それで、「その証拠を取るために、解剖には出した方が良いと思います」て言われたんです。

と語っている。

 さらに、病理解剖後の霊安室で、原告Yが麻酔科教授に「最後に麻酔科教授に◎◎の死は挿管ミスによる窒息死ですね」と尋ねると、教授は「そうです」と答えたと原告Yは、述べている。

さらに、原告Yの自宅を訪れた麻酔科の女性医師も「自分の子がこんな目に遭ったら殺されたと思います」と話したと原告Yは語っている。しかし、後日、原告Y宅を訪れた麻酔科の男性医師は、教授の発言を「あやふやなことを申しておりました」と訂正を試みたが、原告Yに「時間がたっているから、一寸相談したのと言いたくなるような今のお話です」と言われている。

 重大な結果が発生した直後に、複数の医療者が、医療ミス、少なくとも患者側に医療ミスを認めたと思われる説明をすれば、原告Yと同じような状況に立った人間は、ほぼ間違いなく、麻酔科の医療過失によって重大な結果がもたらされたと確信してしまうと考えられる。結局、なぜ挿管できなかったのかという原告Yの問いに、医療者側は答えることなく、訴訟となった。

(2)事後的インフォームド・コンセント ―同意としての「納得」―

 原告Xも原告Yも、入院前の医師の説明で、生命自体に対する危険性を知らされていなかった。むしろ、原告Xの場合は2週間後の運動会には間に合うだろう、原告Yの場合には危険性はゼロに近いと説明されていた。「任せる」の範囲は、医師による説明によって提示された治療内容と方法、及び予期される結果の範囲であると前述したが、原告Xと原告Yの場合は、医師による説明によって提示された予期される結果の範囲を超過していた。

しかし、医療は、確定した行為ではなく、不確定な要素が多い。したがって、医療者自身予期していなかった結果が生じる可能性も存在している。こうした場合、結果に対しても説明が行われるが、ここでは説明だけではなく、超過部分に対応した事後的同意を得る必要がある。すなわち、治療終了後のIC=事後的インフォームド・コンセント(以下『事後的IC』)である。医師による説明によって提示された予期される結果の範囲の超過がなぜ発生したのかという因果関係の説明と、それに対する患者側の同意である。事前のICでは、説明と同意としての「任せる」であったが、事後的ICにおいては、説明と同意としての「納得」が重要となってくる。

 原告Xは、

許すことは出来ませんが、「自分(医師)らが息子に対してした治療で、ミスがありました。今後しないように、病院で努力していこうと思います」というような説明があったら、提訴までしてなかったと思います。泣き寝入りですね。

と、説明があれば、提訴しなかったと思うと語っている。ここでいう説明とは、患者側が納得でき得る説明である。医療側弁護士G

悪い結果が起こった時に、何故、そうなったのかっていうことを、きっちり、場を設けて説明すべきでしょうね。

と述べ、患者側弁護士H

医者側が、その事故ないしは不幸な結果が起こった段階で、誠心誠意、きっちりと説明をし、自分の方に非があるならそれも含めて、きっちりお詫びをすれば、弁護士のところに相談に来る人は減るのではないかと思う。

と事後的ICの重要性を語っている。

 事前のICにおける説明によって提示された予期された結果の範囲を超過した場合、事前の「任せる」の想定範囲を逸脱することになる。そのような場合、事後的ICが重要であり、事前に提示された予期される結果の範囲の超過がなぜ発生したのかという因果関係の説明を行わない場合、患者側の「納得」という同意を得られず、訴訟へと向かうことがある。そうした意味で、事後的ICは、重要であり、「納得」という事後的同意を得られれば、相当数の医療訴訟は回避できると考えられる12

 

3.選択権の存在

(1)自律的選択の実現過程としてのIC

ICの中核は、患者側から治療の同意を得ることではなく、患者の自律的選択である2,4)。最高裁判所も「意思決定をする権利は、人格権の一内容」として認めている(最H12229日=エホバの証人不同意輸血事件)。また、同意とは、最低限、承諾と拒否の二つの選択権が留保されていることが前提となっている言葉であり、選択権がまったくないところには同意という概念がそもそも存在しない。さらに、もし仮に、患者側から治療の同意を得ることを中核と考えるのであれば、わざわざICという概念を用意した意味は縮減される。法学の知見をもって、医療契約の締結(「説明」が契約申込、「同意」が承諾)として論じれば対応できる。したがって、ICは、患者の自律的選択の実現過程であるともいい得る。患者の自律的選択の実現には、ICにおける一方当事者である医師の存在が大きな位置を占めている。自律的選択に有効な説明について、医師Bは以下のように語っている。

一番難しいのは、理解が得られるために、その説明方法が本当に正しいのかどうかっていうとこだと思うんですよ。本当にその人が必要な情報を得られるように、提供できているのかどうかっていうのは、ものすごく疑問です。大体、説明するのは、こっちに都合の良いようなことばっかり説明してしまうことが多いので。

医師Bは、このように自らの説明が、患者に過不足なく伝わり、患者の理解を十分得ているかという点に関し疑問を持っている。しかし、フェイドンとビーチャム13

言語共同体は言語(たとえば英語を話すこと)と文化(たとえば、家族単位、社会階層、世代、民族性、職業グループなど)の両方に規定される。文化的な類似性に加え、以前にその人たちのあいだで交流があれば、容易によい理解が得られる。コミュニケートしようとする話題について共通の考えをもたない人のあいだ、または初対面の人のあいだでは、おたがいに理解しにくいのは自明だろう

と述べているように、医師と患者という立場性の違いと患者との社会的背景の相違を考えれば、医師Bの疑問こそ重要である。「その人が必要な情報を得れるように、提供できているのかどうか」という医師Bの疑問は、患者は私=医師と同じではないという考えから出発している。それは、人は社会における生活(職業、収入、家族、生育暦)が異なっているように、重視する価値もことなり、それゆえに生きるという意味も異なっているということの認識である。このような視点がなければ、医師Bにとって患者への説明は、単に親切で簡明であれば事足りるわけである。人は、すべて異なっているので、説明に疑問を持つ。その結果、患者の望む情報を提供するには、コミュニケートしながら他者である患者を知ろうとすることになる。したがって、医師Bは、患者との説明に積極的に時間をとることになる。

 医師Bのこうした姿勢と実践は、

任さざるを得ないのですけど、何でも聞いてくれという言葉が、僕にとっては信頼ができるのかなと。「いつでも聞いて下さい」ということで、最終的に選択権が私にあった。

という患者Aの言葉に反映されている。医師Bにとって説明とは、患者が自己の思う最善の決定(選択)を実現するためにあり、ICは自律的選択の実現過程となる。

(2)患者側の選択と医師の治療計画案との齟齬

医師Bは、患者のなした選択に関し

最終的に本人さんがこちらの言ったことわかって頂いて、わかって頂いた上で本人が決断をしたんなら、もうその結果は、どれを選択して頂いても、僕は良いというふうに思っています。

と考えている。

しかし、医師Bのいう「患者がどれを選択して頂いても良い」ということの実践は、過酷である。医師B自身も、患者の宗教的信念による治療拒否により、治療すれば十分救命できる患者を死なせている。その経験を

感情、難しいですね。治療すれば良くなるのがわかっているのに出来ないっていうのは、辛いですね。診ている方の立場からすると辛いですけども、逆の立場に立って、ある信念もあるっていうことを考えたら、その人はその人で、自分が思った人生を生き抜いたのなら、それはそれで本人にとってはいいのかもしれないですね。

と医師Bは述べている。人の身体生命を救うことを業務上も倫理上も求められる専門職としての医師が、治療を拒まれ、救命可能でありながらも死ぬに任せざるを得ないというのは精神的に過酷な状況に追いやられることになる。このケースの患者は、成人で本人の明確な意思が存在していたのであるが、患者の自律的な選択=決定を尊重しようとすれば、時として医療職は自らを過酷な精神状態に追い込むことを承知しなければならない。

 患者の自律的な選択を尊重するとしても、医療者が患者に再考を促すことは認められるばかりか、むしろ望まれる。医師Bの経験したケースは、患者自身の選択であったが、以下の医師Iの経験したケースは、「病児」の親による選択であった。

ダウン症であるKに手術を行わなければ、生命にかかわる心疾患の存在が明らかになった。医師Iは、Kの親に説明し、手術の同意を求めた。しかし、Kの親は手術の同意を拒んだ。Kの親が治療を拒んだ背景を医師Iは、

拒否されたのには背景がありまして、Kは第二子で、15歳年上の第一子も障害児なんです。だから、親御さんは15年間、障害児を育ててきて、どんなに大変かっていうのを、もう底の底からご存知です。

と語っている。さらに医師Iは、

   私はある意味、これは無理もない話だなって思いました。だから、この親に無理やりに育てさせようとかいう気持ちは最初からなかったですね。だけどまあ、そうは言っても、この子は助かっていくはずの子だし

と述べている。

 この時点で、親の意思(治療に同意しない)と医療者側の治療方針(救命)は対立している。つまり、説明と同意に齟齬(拒絶)が生じている。Kの親の生活面を主たる理由とする治療拒否という選択は、確かに親にとっての自律的選択であるが、K自身の自律的選択ではなく、あくまでKの代理に過ぎない。医療者としてはジレンマに陥るところである。この時点で、医師Iは、

親に無理矢理に育てろという権利はない。でも、かと言って、子どもはやっぱり親の持ち物じゃないから。子どもの命は子どものものだから。それだったら、その子どものケアが可能な人に預かってもらうっていうスタンスが、自分の中では一番今しっくりしていると思います。

と考え、再度Kの親に説明(提案)を行った。

 「自分が育てる気でないんだったら、それはそれでしょうがない」だけど「子どもの命は親のもんじゃないから、施設に預けて親権も」との提案を行った。さらに、「預かってもらうには、ある程度健康じゃないと難しいので、預かってもらうために手術をさせて下さい」と説明した。結局、この2回目の説明に同意を得ることが出来、Kは、手術後、施設に保護されることになった。その後、K2年間施設で過ごし、現在は親の元に引き取られ家族と生活している。

 医師Iは、Kの手術を実現するために、他の医師や看護師、ソーシャルワーカーと協力している。さらに、手術後の受け入れ施設を確保するために、児童相談所、施設等と話し合い、受け入れ先を確保した上で、Kの親に再度の提案をしている。こうした医師Iらの対応は、医療者の職務を超過しているかもしれないが、患者のおよび家族の支援としては十分だった。

 

X 結論 ―支援としてのインフォームド・コンセント

患者は「任せる」という表現で、医師の治療に「同意」するが、その「任せる」には、専門職としての医師に「任せる」第一段階と、どの医師(具体的)に治療を「任せる」かという第二段階がある。そして医療の現場で問題になるのは、その第二段階である。

患者側は「任せる」という表現と共に「信頼」という言葉も使用するが、患者の「任せる」という意思決定は、具体的な医師に対する「信頼」を根拠にしているのである。

「任せる」とは権利放棄ではなく、あくまでも「同意」であり、ICに基づいた一定の範囲内での委任を意味している。治療中の望まない重大な結果に対する、患者側の因果関係説明の要求は、患者の「任せる」が固定した委託ではなく、治療の全過程において、必要に応じて繰り返されるICそのものであることを説明している。

診療過程における重大な事態に対しては、事後的インフォームド・コンセントが必要になるのが、この事後的ICは、「納得」という言葉で表現される。すなわち、医師による結果説明に対する、事後的な理解と同意である。この「納得」という事後的ICは、医療訴訟の回避という意味でも重要である。

ICとは言い換えれば、患者の自律的選択の実現過程であり。その患者の自律的選択の実現には、ICにおける一方の当事者である医療者の積極的関与が必要とされるのである。そして、患者と医療側の協働を可能にするのがIC過程におけるコミュニケーションの側面と支援の側面の存在なのである。「病児」等、本人に自律的選択および有効なコミュニケーションを期待できない患者群には、ICの支援の側面が強調される。

 

【引用文献】

1) 日本医師会生命倫理懇談会,(1990)説明と同意についての報告,資料集 生命倫理と法編集委員会,(2003)資料集 生命倫理と法,太陽出版,東京,初版,86-98

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3) Snyder, L. , Leffler, C. (2005)  for the Ethics and Human Rights Committee,

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4) Beauchamp, TL.Childress, JF.(1989) Principles of Biomedical EthicsOxford University Press Inc.New York3rd ed. (永安幸正,立木教夫監訳,(1997)生命医学倫理,成文堂,東京,102.)

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6) Faden, RR., Beauchamp, TL.(1986) A History and Theory of Informed Consent Oxford University Press ,Inc.New York.(酒井忠昭,秦洋一訳,(1994)インフォームド・コンセント―患者の選択,みすず書房,初版,東京,248.)

 

7) Blumer, H.(1969)  Symbolic Interactionism-Perspective and MethodPrentice-Hall, Inc.New Jersey) ,(後藤将之訳,(1991)シンボリック相互作用論パースペクティヴと方法,勁草書房,東京,初版.)

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9) 沖野良枝,(2003) インフォームド・コンセントに対する患者の認識と意思決定要因の分析,日本保健福祉学会会報,8(2)29-39

10) Buckman, R.(1992)  How to Break Bad News: A Guide for Health Care ProfessionalsJohns Hopkins University Press.Baltimore.( 恒藤暁監訳,(2000) 真実を伝える―コミュニケーション技術と精神的援助の指針,診断と治療社,東京,初版,72)

12) Faden, RR., Beauchamp, TL.(1986) A History and Theory of Informed Consent Oxford University Press ,Inc.New York.(酒井忠昭,秦洋一訳,(1994) インフォームド・コンセント―患者の選択,みすず書房,初版,東京,36.)

14) 望月浩一郎,天保英明,(2001) 医療事故における患者と家族への説明,治療,8344-49

15) Faden, RR., Beauchamp, T.L(1986) A History and Theory of Informed Consent Oxford University Press ,Inc.New York.(酒井忠昭,秦洋一訳,(1994)インフォームド・コンセント―患者の選択,みすず書房,初版,東京,257.)

 

【参考文献】

1) 五十嵐雅哉,(2004) 医療におけるパターナリズムが正当化される条件,日本老年医学会雑誌,41(1)8-15

2) 上林茂暢,(1995) インフォームド・コンセントは日常診療から,からだの科学,18120-24

3) 弘睦夫,(1997) インフォームド・コンセントにおける信頼関係の諸問題,倫理学研究,103-13

4) 前田泉,(2004)「患者満足度」を見直す,医療経営最前線 医事業務編,23316-27